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第91話 見えぬ境界

───山小屋付近


「惟成殿!式神の形が……!」


武官が声を上げた。


犬の姿だった式神が、ゆるゆると形を崩し──


やがて、ひらりとした蝶へと変わる。


「蝶……ならば、もうすぐのはずだ。」


惟成の声が低くなる。


「お前は都へ戻れ。」


「はっ!惟成殿、これからはお一人になります。くれぐれもお気を付けを。」


武官は一礼し、踵を返して駆けていった。


足音が遠ざかる。


静寂。


惟成は、蝶を見上げた。


(……ここからは、俺一人か。)


蝶はふわり、ふわりと頼りなく飛ぶ。


その軌道を見失わぬよう、惟成はゆっくりと歩を進めた。


やがて──


蝶が、くるくると円を描く。


そして、近くの岩へと降りた。


「……ここか……?」


惟成は足を止める。


辺りを見回す。


岩、木、雪。


どこにでもある山中の風景。


「……何も、ない……。」


一歩、踏み出す。


また一歩。


視線を巡らせる。


違和感はない。


景色も、音も、歪んでいない。


「紗世ーー!!いるのかーー!!」


声を張り上げる。


「返事をしろーーー!!」


しかし──


返ってくるのは、風の音だけ。


シン、とした静寂。


惟成の眉がわずかに寄る。


「……また結界か……?」


呟く。


だが──


「いや……違う……」


目を細める。


(歪みが、ない)


これまでの結界のような“拒絶”がない。


音も、景色も、正常。


だが──


「……いるはずだ。」


蝶は、そこにいる。


微かに羽を揺らしながら。


まるで“ここだ”と示すように。


惟成は、ゆっくりと前に進んだ。


何もない空間へ──





───小屋の中


「紗世ーー!!いるのかーー!!返事をしろーーー!!」


外から、声が響いた。


(惟成……!!)


紗世の目が大きく開く。


(惟成だ……!!来てくれた……!!)


涙が一気に溢れる。


喉が震える。


「(惟成……!!ここ……!!ここにいる……!!)」


叫んだつもりだった。


だが──


声は、出ない。


首元に残る、冷たい違和感。


(……っ……!!)


民部卿の姫君に施された術。


完全に、声を封じられている。


「っ……!!」


紗世は拳を握りしめ、


床を──


ドンッ!ドンッ!!


必死に叩く。


「紗世ーー!!どこだーー!!」


(気付いて……!!)


さらに強く叩く。


ドンッ!ドンッ!ドンッ!!


だが──


音が、響かない。


(……え……?)


自分の叩く音が、


まるで布越しのように“吸われて”いる。


(音……届いてない……?)


息が詰まる。


外では、惟成の足音がする。


すぐ、近く。


(……こんなに近いのに……)


手を伸ばす。


届くはずの距離。


なのに──


(届かない……)


「紗世ーー!!」


声だけが、遠く感じる。


(……扉……)


視線が、扉へ向く。


ほんの数歩。


それだけの距離。


(あそこまで……行けば……)


体に力を入れる。


「……っ……!!」


腕に力を込める。


体を、起こす。


──が


バタッ!!


崩れ落ちる。


「っ……ぁ……」


全身に激痛が走る。


(……動かない……)


息が荒れる。


視界が揺れる。


自分の手が目に入る。


爪は割れ、血が滲み、


土と血で汚れている。


(……こんな……)


わずかに笑いそうになる。


(扉……すぐ……そこなのに……)


もう一度、腕に力を込める。


だが、動かない。


ドンッ……ドンッ……


力なく、床を叩く。


音は、やはり吸われる。


「紗世……!!」


外から、焦った声。


(……惟成……)


涙が頬を伝う。


(ここにいるのに……)


唇が震える。


(こんなに近くにいるのに……)


手が、床に落ちる。


トン、と軽い音。


(……届かない……。)





───山小屋付近


「紗世ーー!!どこだーーー!!」


叫びが、虚しく山に吸い込まれる。


惟成はその場で足を止めた。


息を整える。


(……いる。)


視線を落とす。


蝶は、動かない。


同じ場所で、ひらひらと羽を揺らしている。


(ここから、動かない……?)


一歩、近付く。


違和感はない。


風も、音も、景色も、すべて“普通”。


だが──


「……近いな。」


ぽつりと呟く。


もう一歩。


足元の雪が、ギュッと鳴る。


その瞬間──


「……?」


惟成の足が止まった。


今の音。


(……浅い。)


雪を踏んだはずの感触が、わずかに軽い。


まるで、下が“空洞”のような。


ゆっくりと、足をずらす。


ギュッ……


今度は、普通の踏み応え。


もう一度、先ほどの位置へ。


ギュ……


──軽い。


「……ここか。」


しゃがみ込む。


地面に手を当てる。


スッ、と滑る感触と


ザラ、と引っかかる感触が、混じる。


(同じ地面のはずなのに……違う。)


指先でなぞる。


ほんのわずかに、


“境目”がある。


「……見えないだけで、あるな。」


立ち上がる。


そのまま、前へ手を伸ばす。


何もない空間──


のはずが


コツン


指先が、何かに触れた。


「……!」


ゆっくりと押す。


スッ、と通る部分と


ピタリと止まる部分。


(面じゃない……点でズレている)


視線が鋭くなる。


「紗世。」


低く、呼ぶ。


返事はない。


だが、確信があった。


「……ここにいるな。」


刀の柄に手をかける。


鞘走り。


静かな音。


刃が、外気に触れる。


「見えないなら──」


構える。


「斬るだけだ。」


一歩、踏み込む。


狙いは、“違和感の一点”。


「──っ!!」


振り抜く。


ガンッ!!


硬い何かに当たる。


同時に


ビシッ!!


空間に亀裂が走る。



だが──


バキン!


惟成の刀が、根元から折れた。


「───!!」


一瞬、息が止まる。


「くそっ……こんな時に……!!」


歯を食いしばる。


折れた刃先が、雪の上に突き刺さる。


静寂。


風の音だけが、やけに大きく響く。


(……まだだ)


視線を走らせる。


その時──


ふと、手が懐に触れた。


「──これを、持っていきなさい。」


六条御息所の声が、脳裏をよぎる。


「……!!」


惟成の目が見開かれる。


懐から取り出す。


白布に包まれた、小さな刃。


「……邪気祓いの小刀……!」


自然と、息が整う。


先ほどまで振るっていた刀より、遥かに小さい。


だが──


惟成は、それを強く握った。


「……いや。」


視線が、“一点”に定まる。


「これでいい。」


むしろ──


「点を突くには、ちょうどいい。」


一歩、踏み込む。


雪が鳴る。


「紗世!!」


叫ぶ。


「そこを動くな!!」


届いているかは分からない。


それでも──


「今、開ける!!」


小刀の切先を、“違和感の一点”へ。


ゆっくりと──押し込む。


ミシ……ミシミシ……!!


空間が、軋む。


見えない“壁”が、抵抗する。


刃が、わずかに弾かれる。


「退け……!!」


さらに力を込める。


腕が震える。


それでも止めない。


「そこに、いるんだろうが!!」


ぐっと、踏み込む。


小刀が、わずかに食い込む。


「……っ!!」


手応え。


確かな、“裂け目”。


「開けろおおおおッ!!!」


バキィッ!!


一点から、亀裂が爆ぜるように広がる。


ビシビシビシッ!!


空間全体にヒビが走る。


そして──


バリイイイイインンンン───!!!


境界が、砕け散った。


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