第90話 因縁
───貴船・尼寺
「……内と外、同時に破られたか。」
僧が低く笑った。
「まあいい。小屋の前にはもう一枚、結界は間に張ってある。」
「ほんっと、ねちっこいな。君は。」
陰陽頭はわずかに肩を竦め、懐から札を取り出した。
「境界は“曖昧”にしていると言ったな。」
「ああ。」
「ならば──“定義し直す”だけだ。」
札を二枚、指に挟む。
「ここまでが内、ここからが外。」
静かに言葉を落とす。
「曖昧なものに、境界を与える。」
バッ!
札を打ち付けた。
何もないはずの“空間”に。
ドンッ!!
空気が震えた。
「……っ!?」
僧の目がわずかに見開かれる。
「強引だな……!だが、それでは“干渉点”が増えるだけだ!」
僧が指を切るように振る。
空間が歪む。
先ほど定義された“境界”が、再び曖昧に揺らぐ。
「ほう……上書きか。」
陰陽頭の口元がわずかに歪む。
「ならば、こちらも重ねるだけだ。」
さらに一枚、札を抜く。
「境を二つ持たせる。どちらが“現実”か──選ばせてやる。」
バッ!!
札が二方向へ打たれる。
ドンッ!!ドンッ!!
空間が二重に鳴った。
「なっ──!?」
「曖昧にしたのは、お前だろう。」
陰陽頭の声が低く落ちる。
「ならば、曖昧なままでは維持できまい。」
ミシミシッ……
空間が軋む。
二つの“定義”が衝突する。
「やめろ……それ以上は術式が──」
僧が叫びかけた、その瞬間。
「定義しろ──“ここが道だ”!!」
陰陽頭の札が、強く光る。
ドンッ!!
ビキビキビキッ!!
パアアアアアン!!!
結界が、音を立てて引き裂かれた。
───ズザァッ!
僧は弾き飛ばされ、後方に倒れ込んだ。
歪んでいた客間が、音もなく元の形へと戻っていく。
重苦しかった気配が、わずかに薄れた。
「……っ、は……」
陰陽頭が短く息を吐く。
わずかに指先が痺れていた。
だが、それを表には出さない。
「お前、私をここに閉じ込めるつもりだったんだろう?」
淡々と告げる。
「和泉殿の救出に手出しできないように。」
チラリと僧を見る。
「──それとも、“俺”への私怨も混じっているか?」
「────!!」
僧が顔を上げた。
「やはり……気付いていたのか……安倍在昌!!」
「うん?最初は分からなかったよ。」
陰陽頭──在昌は軽く首を傾げる。
「だがね、その粘つくような術の癖……昔、嫌というほど見た。」
僧の顔が歪む。
「陰陽頭は……本来なら私が就くはずだったのだ!!」
「何を言っている。」
在昌の目が、すっと冷えた。
「必要のない呪詛を都に蔓延させようとした者が、陰陽頭になどなれるわけがない。」
「あれは必要だった!!当時の政の為に!!」
「違うな。」
一歩、近づく。
「あれは“お前の欲”だ。」
静かに、断じる。
「その結果、呪詛は露見し──お前は都を追われた。」
「……っ……」
「自業自得だ。」
振り返る。
民部卿の姫君は、虚ろな目で宙を見ていた。
何も映していない瞳。
それを近江が必死に支えている。
(──間に合わなかったか。)
ほんの一瞬だけ、在昌の視線が揺れる。
だが、すぐに消える。
「……さて。」
袖を払う。
「私は戻るよ。惟成くんが、和泉殿を連れ帰ってくるだろうからね。」
「………っ!」
僧が歯を食いしばる。
在昌は振り返らない。
ただ、声だけを落とした。
「……次はない。」
一瞬の沈黙。
「また同じことをすれば──」
その声は、冷たく。
「お前を、“消す”。」
───鞍馬
山の空気は、すでに冷え始めていた。
数台の牛車。
控える武官たち。
そして──
源氏の君と頭中将。
「最初に戻ってきた武官の話では、ここ鞍馬で式神が変化した、と。」
源氏の君は山道の奥を見据えた。
木々の隙間は暗く、先は見通せない。
「大鳥から小鳥、だったな。」
頭中将が腕を組む。
「小鳥になってから、どれだけ進んだのか……この山道だ。距離の見当もつかん。」
ふと、空を見上げる。
「……日も、落ちるぞ。」
その言葉に、場の空気が張り詰める。
その時──
「来ます!!」
武官の声。
山道の奥から
蹄の音が、激しく近付いてくる。
ザッ!!
馬が急停止する。
同時に、武官が飛び降りた。
「報告いたします……!」
息を切らしながら、声を絞り出す。
「丹波国境界付近にて……式神が、小鳥から犬へと変化しました……!」
「……何だと……?」
頭中将の顔色が変わる。
「丹波国……!?」
思わず一歩前に出る。
「……そこまで、進んだのか……!」
山一つどころではない。
完全に都の外。
想定よりも、遥かに遠い。
「はい……しかし……」
武官は息を整えながら続ける。
「そこから先は道が狭く険しく、雪も残っておりました……馬では進めず……惟成殿は徒歩で先へ……」
「……っ……」
頭中将が歯を食いしばる。
「そのような場所まで……」
源氏の君が低く呟く。
「大怪我を負っている和泉殿が、運ばれていったということか……。」
その顔が、わずかに歪む。
怒りか、焦りか、それとも──
「……急ぐ。」
短く言い切る。
すぐに振り返る。
「武官二名!」
「はっ!」
「松明、明かり、水、食料を持て!丹波国境界付近まで急行し、そこで待機せよ!」
「はっ!!」
武官たちが一斉に動き出す。
牛車から荷を降ろし、手際よくまとめる。
馬に跨る。
「行け!!」
鞭の音。
土を蹴り、駆け出していく。
その背を、源氏の君は見つめた。
しばし、沈黙。
そして──
小さく、呟く。
「……皆で、無事に帰ろう。」
それは命令ではなく
願いだった。
静かに、しかし確かに
山の空気に溶けていった。




