第89話 内と外、結界の崩壊
───山奥の小屋
もう一度、髪を境界に押し付ける。
(開け……!)
ギリッ──
空気が軋む。
だが、その瞬間
ズキンッ!!
(っ……あ……!!)
全身に走る激痛。
思わず手を離す。
(……だめ……体が……)
息が乱れる。
視界がぐらりと傾く。
床に崩れ落ちそうになるのを、必死に腕で支えた。
(……ここで止まったら……終わる……。)
震える手で、再び髪を掴む。
指先が、血で滑る。
(まだ……足りない……。)
視線が、境界線の“ひび”に向く。
ほんのわずか。
だが、確かに“綻び”ができている。
(これ……一本じゃ足りない……)
ゆっくりと息を吸う。
(……なら……)
ぐっと歯を食いしばる。
髪をまとめて、強く引き抜いた。
「っ──!!」
鈍い痛みが頭皮を走る。
だが、止めない。
そのまま、引き抜いた髪を束ねる。
(“結び”を壊すなら……こっちも“結び”で……!)
ぎゅっと結ぶ。
自分の髪同士を。
そして──
境界線に、叩きつけるように押し当てた。
(──開けぇぇぇ!!)
ミシッ!!
空間が大きく軋む。
ひびが、広がる。
ピシッ、ピシピシッ!!
見えない境界に、亀裂が走っていく。
(……まだ……!)
腕が震える。
力が入らない。
(届いて……!)
視界が白く霞む。
意識が遠のきかける。
それでも、手だけは離さない。
(……お願い……!)
その瞬間──
バキッ!!
小さな、だが確かな“破断音”。
ひびが、一本、完全に繋がった。
(……あ……)
みるみると小屋の内部の光景が変わっていった。
(……結界……破れた…。)
かすかに笑みが浮かぶ。
だが次の瞬間
ガクン、と力が抜けた。
(……もう……無理……)
そのまま、床に倒れ込む。
視界の端で、ひびがゆっくり広がっていくのが見えた。
(あとは……誰か……)
瞼が落ちる。
(……惟成……)
声にならない声を最後に──
紗世の意識は、静かに途切れた。
───鞍馬・山中
「一歩、前だ。」
惟成の声だけが響く。
全員、目を閉じたまま進む。
「止まれ。」
足を止める。
風の音。
木々の擦れる音。
──だが
「……違うな。」
惟成が呟いた。
「何が、ですか。」
「音が……歪んでいる。」
目を閉じたまま、耳を澄ます。
右から聞こえるはずの葉擦れが、微妙に遅れる。
(空間がズレている……。)
ゆっくりと足を前に出す。
──ピタリ
何かに“触れた”。
空気なのに、壁のような感触。
「ここだ。」
惟成は目を開いた。
何もない。
だが、確かに“ある”。
手を伸ばす。
スッ、と通る部分と
ガン、と弾かれる部分がある。
「……一点だけ、違う。」
じっと見つめる。
(他は“押し返す”のに……ここだけ、揺れている。)
空間がわずかに歪む“点”。
「ここが……綻びか。」
剣の柄に手をかける。
「全員、下がれ。」
武官たちが距離を取る。
惟成は息を整えた。
(ここを……貫けばいい)
「──っ!!」
一気に踏み込み──
ガンッ!!
空間に、刃が突き刺さる。
目には見えない“壁”に。
ビシッ!!
亀裂のようなものが走った。
「……やはりな。」
さらに力を込める。
「砕けろ!!!」
バキィッ!!
見えない境界に、決定的なヒビが入った。
さらに惟成の刀が、見えない一点へと押し込まれる。
ピシッ、ピシピシッ──
亀裂は一気に広がり、
ついに──
バリイイイインンン──!!
何かが砕け散る音が、山中に木霊した。
同時に、張り詰めていた空気が弾ける。
「……っ!」
突風が吹き抜け、惟成の狩衣が大きくはためいた。
今まで歪んでいた景色が、ゆっくりと“正しい形”に戻っていく。
そして──
目の前に、はっきりと“道”が現れた。
細く、雪の残る山道。
確かに、先へと続いている。
「……見えたな。」
低く呟く。
その時──
頭上を旋回していた小鳥の式神が、ふわりと惟成の前へ降り立った。
ゆらり、と形を変える。
「──犬……?」
小さく目を細める。
(陰陽頭は言っていた……犬なら半刻ほど、と。)
視線を道の奥へ向ける。
(半刻……歩きで、か。)
その距離の重さを、瞬時に測る。
同時に、胸の奥に焦りが走る。
(まだ……間に合うか……?)
「一人、都へ戻れ。」
振り返らずに言う。
「丹波国境界付近で、式神が小鳥から犬に変わったと伝えよ。」
「は……!」
しかし、武官の一人が一瞬躊躇った。
「……しかし、この先は──」
「結界は破った。」
短く、言い切る。
「戻る分には問題ない。元の道は既に“外側”だ。」
間を置かず続ける。
「それに──」
一瞬だけ視線を前に向けた。
「急がねば、手遅れになる。」
その声に、迷いはなかった。
「……はっ!」
武官は深く頷き、馬を返して駆け出した。
土を蹴る音が遠ざかっていく。
惟成は再び前を向いた。
細い山道。
雪が踏み固められ、滑りやすくなっている。
「ここから先は馬は無理だ。」
手綱を近くの木に結びつける。
「繋いでいく。」
もう一人の武官も頷き、同様に馬を固定した。
刀を握り直す。
(……近い)
胸騒ぎが、強くなる。
(紗世……まだ、生きていろ。)
「行くぞ。」
惟成は迷いなく、雪の残る山道へ踏み出した。
ギュッ、と雪が軋む音。
その足取りは、早く、そして重かった。




