第88話 阻む結界
(気配が……無かった……?)
陰陽頭はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、僧衣をまとった男。
年の頃は判別しづらい。若くも見え、老いても見える。
ただ一つ確かなのは──
その“目”だった。
底の見えない、濁った光。
(……ただの僧ではない。)
「無礼だな。人の背後を取るとは。」
陰陽頭は平静を装いながら言った。
僧は、くくっと笑う。
「背後?違うな。最初から“ここにいた”のだよ。お前が気付かなかっただけだ。」
(……結界の内側に、さらに“隠蔽”を重ねている?)
一瞬、思考が遅れる。
読めない。
いや──
“読ませない”ようにされている。
その事実に、陰陽頭はわずかに目を細めた。
「なるほど……お前か。」
「さて、どうだろうな。」
僧は曖昧に笑うと、姫君の背後にゆるりと回り込んだ。
まるで“所有物”を守るかのように。
「民部卿の姫君に術を授けたのは、貴様だな。」
「授けた、とは失礼だ。」
僧は肩をすくめる。
「人はな、“欲したもの”しか受け取らぬ。私はただ──道を示しただけだ。」
姫君の指先が、わずかに震えた。
「呪詛の理屈も、同じこと。」
僧はゆっくりと語り出す。
その声音は、妙に滑らかだった。
「外からの呪いは弾かれる。
だが“内”からのものは、決して拒めぬ。」
陰陽頭の視線が鋭くなる。
「髪は“命”の一部。己の一部を媒介にすれば──術は“内側”へ通る。」
「……だから人形に髪を巻いたか。」
「そうだ。」
僧は楽しげに頷いた。
「あれは呪いではない。“自己干渉”だ。自ら自分を削る術。」
ぞくり、と空気が冷える。
「そして結界。」
僧は指を一本、立てた。
「ただ隠すだけでは甘い。見えぬだけでは、探されれば終わる。」
ゆっくりと、陰陽頭を見る。
「だから“認識を歪める”。そこに在っても、“無い”ものとする。」
(……厄介だな。)
陰陽頭は内心で舌打ちした。
単純な隠蔽ではない。
“知覚そのもの”に干渉している。
(この術者……陰陽の枠ではない。)
「鞍馬──」
僧がぽつりと呟いた。
陰陽頭の瞳がわずかに揺れる。
「あの山は良い。気が濃い。歪みやすい。術を編むには最適だ。」
「やはり、そこか。」
「さてな。」
僧はまた曖昧に笑う。
「お前の仲間も、今ごろ“そこへ向かっている”のではないか?」
その言葉に、陰陽頭の脳裏に浮かぶ。
──鞍馬へ向かった式神
──馬を走らせる惟成たち
「辿り着けるかどうかは……別の話だがな。」
僧は愉快そうに言った。
空気が、さらに重く沈む。
陰陽頭は、静かに息を吐いた。
「面白い。」
そして、笑った。
「ならば、こちらも少し本気で行こうか。」
その目に、鋭い光が宿る。
僧は口元だけで笑った。
「ほう。陰陽寮の長が、直々に?」
「相手が相手なのでね。」
陰陽頭は懐から紙片を取り出すと、指先で軽く弾いた。
ひらり、と宙に舞う。
次の瞬間──
バチッ!
空気が弾けた。
見えない“何か”が紙を叩き落としたのだ。
(……やはり張っているか。)
陰陽頭は目を細めた。
(この場そのものが、小さな結界の重ね張り……しかも層が多い。)
「不用意に動くなよ。」
僧が言う。
「ここで術を強く使えば──歪むぞ。」
「歪ませているのは貴様だろう。」
「さてな。」
僧は肩をすくめる。
陰陽頭はゆっくりと視線を巡らせた。
柱、床、天井──
何も“見えない”。
だが。
(……あるな)
空気の“流れ”が不自然だった。
淀んでいる。
「この場そのものを、結界にしているな。」
陰陽頭が言うと、僧はわずかに笑った。
「正確には違う。」
「ほう?」
「“区切っている”のだよ。」
僧は指を一本立てた。
「内と外を分ける。
それが結界の本質だ。」
陰陽頭は黙って聞く。
「だが今回は少し違う。」
僧の目が細くなる。
「境界を“曖昧”にしている。」
「曖昧……?」
「そうだ。ここに“ある”ものを、“無い”と認識させる。
逆に、“無い”ものを“ある”と思わせる。」
(認識操作か……。)
陰陽頭の中で繋がる。
「つまり──探しても見つからない。」
「そういうことだ。」
僧は楽しげに頷いた。
「辿り着いても“そこにあると認識できない”。だから見えない。入れない。気付けない。」
「……厄介だな。」
「単純だろう?」
僧は肩をすくめた。
「術とはな、“そう思わせる”だけで成立するものも多い。」
陰陽頭の視線が鋭くなる。
「だが、その場合──必ず“境目”がある。」
一歩、踏み出す。
ピタリ、と足が止まる。
(……ここか)
「気付いたか。」
僧が笑う。
「曖昧にしている以上、“完全には消せない”。」
陰陽頭が返す
「つまり、その境目を見つければ──入れる。」
一拍。
「だが“見えない”ぞ?」
僧の言葉に、陰陽頭はわずかに口元を上げた。
「なら、見えるようにすればいい。」
───鞍馬・山道
「止まれ!」
惟成が叫ぶ。
馬が止まる。
目の前の空間が──
ぐにゃり、と歪んだ。
「……なんだ、これは……」
武官が息を呑む。
木が二重に見える。
道がずれている。
(違う……)
惟成は目を細めた。
(景色が歪んでるんじゃない。“自分の見え方”が狂っている。)
一歩、前に出る。
ぐにゃり──
世界がねじれる。
一歩、後ろへ下がる。
──元に戻る。
「……境界か。」
惟成は低く呟いた。
「ここから先が、結界の内側だ。」
「ですが……何も見えません。」
「見えないんじゃない。」
惟成は首を振る。
「“見えていないことにされている”。」
武官たちが顔を見合わせる。
「同じ場所に居るのに、認識だけをずらされる。」
空を見上げる。
式神の小鳥は、一定の場所で旋回し続けている。
「本来の道は、あそこだ。」
(場所は分かっている。だが、辿り着けない。)
歯を食いしばる。
「……全員、目を閉じろ。」
「は?」
「いいから閉じろ。」
全員が目を閉じる。
「一歩ずつ進む。俺の声だけを頼りに動け。」
「目を……使わないのですか?」
「目が狂わされるなら、使わなければいい。」
静かに言い切る。
そして──
「一歩、前だ。」
結界の中へ、踏み込んだ。
───山奥の小屋
「……はぁ……っ……」
紗世は床に手をついた。
(寒い……痛い……)
それでも、視線は四隅の護符へ。
(あれが……結界の核……?)
首を振る。
(違う……)
ゆっくりと、床を見る。
床の上にうっすらと走る線。
(これ……ただの傷じゃない…?)
指でなぞる。
スッ、と感覚が“途切れる”。
「……!」
(ここで……空気が変わる。)
もう一度、触れる。
内側と外側で、感触が違う。
(……区切り……)
息を呑む。
(この小屋……完全に閉じてるんじゃない。
“ここまでが内側”って決められてるだけだ。)
脳裏に浮かぶ。
──陰陽頭の言葉
『結界は“区切る”ものだ』
(……なら……)
震える手で、自分の髪を掴む。
(“結ぶ”から閉じるなら……)
ぎゅっと握る。
(“ほどけば”いい……!)
床の境界線に、自分の髪を押し当てる。
(内と外を……繋ぐ……!)
その瞬間──
ピシッ
わずかに空気がひび割れた。
「……っ!!」
(効いてる……!)
紗世の目に、確かな光が宿る。
───貴船・尼寺
「ほう……」
僧がわずかに目を細めた。
「気付いたか。」
「何のことだ?」
陰陽頭が返す。
「結界の“綻び”だよ。」
僧は楽しげに笑った。
「内側から、誰かが触れている。」
その言葉に──
陰陽頭の口元が、わずかに上がる。
「……なるほど。やはり、あの子は賢い。
ならば──話は早い。」
袖を翻す。
「外と内、両側から崩す。」
僧の笑みが深くなる。
「やってみろ。」
空気が、軋んだ。




