第87話 救出までの道のり
───山奥の小屋
「……はぁ……っ、はぁ……」
紗世は荒い息を吐きながら、壁にもたれかかっていた。
全身が痛む。指先ひとつ動かすだけでも、骨の奥に響くような痛みが走る。
(……でも、じっとしてたら、本当に死ぬ……。)
ぎゅっと唇を噛む。
ゆっくりと顔を上げ、四隅の柱に貼られた護符を見つめた。
(あの僧……結界って言ってたよね……。)
じり、じり、と床を這う。
腕に力を入れるたび、鈍い痛みが走るが、歯を食いしばって進む。
「……っ……!」
柱の一本に辿り着き、護符に手を伸ばす。
触れた瞬間──
バチッ!
(っあ!!)
まるで静電気のような衝撃が走り、思わず手を引っ込めた。
(……触るだけで、これ……?)
息を整えながら、もう一度護符を見る。
紙には細かい文字がびっしりと書かれていた。
(これ……呪文?結界を維持するやつ……?)
紗世は眉を寄せた。
(直接剥がすのは無理……じゃあ……)
視線を巡らせる。
小屋の中は簡素で、床と壁と柱だけ。使えそうな道具は何もない。
(……いや、あるじゃん。私。)
ふっと、自嘲気味に笑う。
(飾り髪……“結ぶ”ことで結界になるって、若紫様言ってたよね……。)
ゆっくりと、自分の髪に手を伸ばす。
乱れてほどけかけた髪を、震える指でまとめる。
(結界に対して、結界……ぶつけてみるしかない。)
息を整え、意識を集中させる。
(私は……ただ髪を結ってるんじゃない…
“守るために結ぶ”……!)
ぎこちなく、しかし丁寧に髪を編み始める。
指が震える。力が入らない。
それでも──
一本、一本。
(御息所様を守るためにやってきたこと……
みんなを守るために……やってきたこと……!)
編み込まれた髪が、ひとつの形になる。
その瞬間──
ふわり、と。
髪の周囲に、わずかな温かさが灯った。
(……これ……)
自分でも驚く。
(やっぱり……ただの飾りじゃなかったんだ……!)
そのまま、編んだ髪を手に巻きつける。
(これで……いける……?)
再び、護符へと手を伸ばす。
今度は──
バチンッ!
さっきより強い衝撃。
「っぐ……!!」
だが、手は離さない。
(負けるな……!これ、絶対“何か”ある……!)
護符と、自分の結界がぶつかり合うような感覚。
ビリビリと空気が震える。
しかし──
パキッ
ほんのわずかに、護符の端が裂けた。
「……!」
(いける……!!)
息を荒げながら、紗世は笑った。
(完全には無理でも……“弱める”ことはできる……!
なら……全部……壊す……!!)
その目に、強い光が宿った。
───鞍馬
「──!」
惟成が顔を上げた。
頭上を旋回していた式神が、ふっと輪郭を揺らした。
ゆるやかに、しかし確かに──形が変わっていく。
大鳥だったそれは、ひとまわり小さな鳥へと姿を縮めた。
「……変わった……。」
後ろの武官が息を呑む。
「止まれ!」
惟成が鋭く声を飛ばす。
一行の馬が一斉に脚を止め、荒い鼻息が冬の空気に白く広がった。
頭上では、小鳥となった式神がくるくると円を描くように旋回している。
惟成はそれを見上げ、短く息を吐いた。
(距離が、縮まっている……。)
胸の奥が、どくんと鳴る。
(紗世……まだ、生きている……!)
「一人、都へ戻れ。」
振り返りもせず命じる。
「式神が鞍馬で変化、小鳥となったと伝えよ。ここから先は距離は近いはず。すぐに追って来られるはずだ。」
「はっ!」
指名された武官が即座に馬首を返す。
雪を蹴り上げ、一直線に都へと駆けていった。
その背を一瞬だけ見送り、惟成は再び前を向く。
(ここまでで……およそ半刻……)
ここまでの道のりを頭の中でなぞる。
(だが……ここから先が問題だ。)
視線の先には、山へと続く細い道。
雪がうっすらと積もり、ところどころ地面が露出し、ぬかるんでいる。
木々は密になり、陽も入りにくい。
(馬では、進めぬ場所も出る……。)
手綱を握る手に、自然と力が入った。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
(待っていろ……必ず、見つける)
「ここからは道が悪い。無理に馬を走らせるな。場合によっては降りて進む。遅れても構わん、だが絶対に見失うな!」
「はっ!」
武官たちの声が揃う。
惟成はもう一度、空を仰いだ。
小鳥の式神が、先を導くようにふわりと山の奥へ向かう。
「……行くぞ。」
低く呟き、手綱を引く。
雪を踏みしめる音が、静かな山中に響いた。
一行は、迷いなく鞍馬の奥へと踏み込んでいった。
───同時刻・貴船の尼寺
「民部卿の姫君、客人でございます。」
若い尼が廊下越しに声をかけた。
「客人?誰です?」
姫君より先に、近江が応じる。
「都より参った陰陽頭様とのことにございます。」
「──!」
近江が息を呑み、姫君を振り返る。
しかし当の姫君は、わずかに目を伏せただけだった。
「そう……。客間へお通しして。
すぐに参ると伝えて。」
「かしこまりました。」
尼は静かに去っていく。
足音が遠ざかったのを確認し、近江が低く囁いた。
「姫君……陰陽頭とは……まさか……」
「気付いていたのね。」
淡々とした声。
「いつからかしら……でも、もう遅いわ。」
ゆるく息を吐く。
「いくら陰陽頭でも──止められない。」
そして、小さく笑った。
「……もう、無理よ。」
その笑みは、どこか壊れていた。
⸻
客間に通された陰陽頭は、わずかに眉をひそめた。
(尼寺だというのに……この気配は何だ。)
静寂の奥に、澱のように溜まった“重さ”。
(呪詛の代償……いや、それだけではないな。)
空気そのものが濁っている。
長く、深く、何かが積み重なった気配──
衣擦れの音が近づく。
「民部卿の姫君様にございます。」
近江の声とともに、御簾が揺れた。
姫君はそのまま内へ入り、静かに座す。
「お初にお目にかかります、陰陽頭様。本日はどのようなご用件で?」
冷ややかで整った声音。
「これはどうも。季節の挨拶を省いていただけるとは助かる。」
陰陽頭は軽く笑った。
「ならば、こちらも単刀直入に参りましょう。」
一瞬で空気が張り詰める。
「六条御息所邸の和泉殿への呪詛──
誰に教わった?」
沈黙。
姫君の視線が、鋭く陰陽頭を射抜いた。
「呪詛を解け……とは仰らないのですね。」
「解かせる必要がないからだ。」
即答だった。
「あの人形が最後の手だろう?今、和泉殿に直接かかっている呪詛は無い。」
わずかに、姫君の指先が動く。
「残っているとすれば──隠すための結界。違うか?」
沈黙が、肯定になる。
「ならば、私に聞く意味は無いのでは?」
姫君が静かに返す。
「探しに行けばよろしいでしょう。」
「結界には術者の癖が出る。」
陰陽頭は一歩も引かない。
「誰が張ったか分かれば、破るのは早い。」
再び、沈黙。
今度は重い。
逃げ場のない問いだった。
「……言わぬつもりか。」
陰陽頭が口を開きかけた──その時。
「そんなに知りたければ──教えてやろう。」
低く、湿った声。
陰陽頭の背後。
音もなく、“そこにいた”。
(気配が……無かった……?)
ぞくり、と背筋が冷える。
振り返る。
そこには──
僧衣をまとった男が、柱にもたれるように立っていた。
その目だけが、異様に光っている。




