第86話 式神の導き
「和泉殿の袿でも単でも構わぬ。普段着ているものを一枚持ってきてくれ。」
陰陽頭が、廊下に控えていた女房へ静かに命じた。
同時に懐から小さな袋を取り出し、先ほど人形に絡んでいた紗世の髪を丁寧に収める。
やがて、女房が戻ってきた。
手にしていたのは、紗世が日頃身につけている淡い黄色の袿だった。
陰陽頭はそれを受け取り、畳の上に静かに広げる。
そして、その中心に先ほどの袋をそっと置いた。
「何を……?」
源氏の君が思わず呟く。
陰陽頭は答えず、目を閉じると、低く祝詞を唱え始めた。
その声は次第に部屋を満たし、空気が張り詰めていく──
次の瞬間。
「袿が……!」
頭中将が思わず声を上げた。
袿が、ひとりでに動き出したのだ。
まるで見えぬ手に操られるかのように、布は折り重なり、形を変えていく。
折り紙のように、幾度も折られ、ねじられ──
やがて。
それは、鷹のような大きな鳥の姿となった。
ふわり、と宙に浮かび上がる。
大鳥はゆっくりと羽ばたき、部屋の天井近くを旋回し始めた。
その姿を見上げながら、陰陽頭はわずかに表情を緩めた。
「……良かった。まだ“間に合う”。和泉殿は生きている。」
「……え?」
御息所が息を呑む。
陰陽頭は少し言葉を選びながら続けた。
「これは、対象者の“念”を使った式神の一種です。……万が一、対象者が既に命を落としていた場合、このように形を成すことはできません。」
一瞬、場の空気が凍りついた。
この術は、生存を示すと同時に──
“死”を突きつける可能性も孕んでいたのだ。
「……しかし、この通りだ。」
空を巡る大鳥を指し示す。
「式神は機能している。和泉殿は……生きている。」
その言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
誰もが、知らぬうちに詰めていた息を吐く。
だが──
陰陽頭はすぐに視線を鋭くした。
「しかし、大鳥か……。」
「何かわかるのですか?」
惟成が一歩前に出る。
「ああ。式神の形態によって、対象者までのおおよその距離が分かる。」
陰陽頭はゆっくりと言葉を続けた。
「小さきものほど近く、大ききものほど遠い。蝶であればすぐそこ、犬であれば半刻……そしてこの大鳥は──」
一瞬、間を置く。
「大鳥が出たということは……早馬でも捜索に半日はかかる覚悟をした方がいい距離だ。」
その場の空気が、再び引き締まる。
「では……これを追えば……!」
惟成の声が強くなる。
「ああ。」
陰陽頭は頷いた。
「この式神は、必ず主のもとへ帰る。追えば──和泉殿の元へ辿り着く。」
その言葉に、源氏の君も頭中将も表情を引き締めた。
「では、すぐに準備をして参ります!」
惟成はそう言うや否や、踵を返そうとする。
「お待ちなさい。」
御息所の声が、静かにそれを止めた。
振り返る惟成に、御息所は傍らの女房へ目配せする。
差し出されたのは、白布に包まれた小さな品。
「これを、惟成殿に。」
惟成は受け取り、布をほどく。
中から現れたのは、小刀だった。
「これは……?」
「それは以前、陰陽寮から各家門に配られた邪気祓いの小刀です。」
御息所は静かに続ける。
「あなたが、持ってきてくださったもの……覚えておいででしょう?」
惟成の脳裏に、記憶が蘇る。
葵の上の邸からの帰り道。
六条邸へ紗世を送り届けたあの日。
紗世、と名を呼ぶようにと言われた、あの時のやり取り──
無言で、小刀を握りしめる。
「道のりも険しいでしょう。」
御息所は深く息を吸い、
「どうか……お気をつけて。」
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……必ず。」
声が震える。
「紗世を……無事に連れ戻してください。」
深々と下げられたその頭に、誰も言葉を挟めなかった。
惟成は、しばしその姿を見つめ──
静かに頷いた。
(必ず、連れ戻す──)
強く小刀を握りしめ、その場を後にした。
───六条御息所邸・庭前
紗世捜索のために集められたのは、
源惟成、源氏の君、頭中将、そして精鋭の武官が三人。
冬の冷気が張り詰める中、空には式神の大鳥が静かに旋回していた。
「惟成は、この三名と共に式神を追え。」
源氏の君が静かに、しかし迷いなく言い渡す。
「式神の形が変わったら、その場で武官を一人ずつ都へ返せ。」
「……道筋を残すため、でございますか。」
惟成が即座に意図を汲む。
「ああ。戻った者の証言で経路が線になる。我らも後から追える。」
頭中将が腕を組み、頷いた。
「無闇に全員で突っ込むより、確実だな。」
「時間との勝負だ。だが、焦って見失えば元も子もない。」
源氏の君の声音は、いつもの柔らかさを残しつつも、明らかに戦のそれだった。
「行け、惟成。」
短く、重い一言。
「……はっ!」
惟成が応じた、その時。
「惟成。」
低く呼び止める声。
振り返ると、父・惟光が立っていた。
「いいか。」
一歩、近づく。
「和泉殿を早く助けたい気持ちは分かる。……私も同じだ。」
その声には、父としての情と、武官としての冷静さが同居していた。
「だが、無茶はするな。休憩は必ず取れ。」
一瞬、間を置く。
「お前が倒れたら、誰が和泉殿を助ける。」
その言葉に、惟成の拳がわずかに握られる。
「……はい。」
短く、しかし確かな返答。
次の瞬間──
バサッ!
大鳥の式神が空を切り、進路を示すように飛び出した。
「行くぞ!」
惟成の号令とともに、捜索隊は雪の残る道へと駆け出した。
───その頃
廊下の陰で、陰陽頭は静かに耳打ちを受けていた。
「……なるほど。」
わずかに目を細める。
「場所は……貴船、か。」
小さく呟く。
(貴船……そのすぐ先には鞍馬。)
脳裏に地形と霊脈が浮かぶ。
(霊力の強い地……呪詛には、これ以上ない場所だ。)
ゆっくりと歩きながら思考を巡らせる。
(それにしても……)
足が止まる。
(貴族の姫君が、単独でここまでの呪詛を繰り返すか?)
紗世の精神世界での干渉。
紅葉見物の集団呪詛。
今回の人形。
(技が揃いすぎている。)
ふ、と息を吐く。
(誰かが“教えている”。間違いなく。)
視線がわずかに鋭くなる。
(鞍馬……となれば)
修験者
あるいは密教僧
可能性が脳裏に並ぶ。
「……本当に、厄介な女だね。」
小さく漏れたのは、呆れとも警戒ともつかない本音だった。
そして顔を上げる。
「──さて。こちらも急がないとね。」
そのまま踵を返し、陰陽寮へと足早に向かっていった。




