第83話 弾けぬ呪、消ゆる声
紗世は網代車に横たえられていた。
揺れるたび、体の奥に鈍い痛みが走る。
「……っ、痛……。」
小さく息を漏らす。
手足には黒ずんだ内出血が広がっていた。
触れずとも分かる。まともに動かせる状態ではない。
(骨は……折れてない、と思うけど……。
でも……ヒビは入ってるかも……。)
浅く息を吸うたび、胸が軋む。
(気持ち……悪い……。
前みたいに……飛び降りるなんて、無理……。)
視界が揺れる。
意識も、どこか遠い。
ガタン、と音がして、車が止まった。
(……止まった……?ここ、どこ……。)
体を引きずるようにして、簾の方へ視線を向けた、その時だった。
「──お久しぶりね。和泉。」
外から、女の声。
(……誰……?)
簾が、細く開かれる。
そこに現れた顔を見た瞬間──
「っ……ひ……!」
喉が引きつる。
声にならない悲鳴。
その顔は──変わり果てていたが、確かに見覚えがあった。
「……民部卿の……姫君様……。」
「嬉しいわ。覚えていてくれたのね。」
女は、ゆっくりと笑った。
「なぜ……このような……」
かすれた声で、ようやく問う。
「自分の罪も分からないのね。」
冷たい声音。
「……教えて、くださらないのですか……。」
「いいわ。最期だもの。」
扇の奥で、唇が歪む。
「田舎者のくせに、源氏の君や高位の殿方に囲まれて、どれだけ目障りか、分かっていて?」
紗世は答えない。
ただ、じっと見返した。
その視線に、女の目がさらに鋭くなる。
「それだけじゃない。
この私に恥をかかせ、尼寺に追いやったのよ!」
ぐい、と胸ぐらを掴まれる。
「なぜ私が!!
なぜ都を追われて、こんな場所で生きなければならないの!?」
激しい怒気。
「……っ……」
紗世は息を詰めた。
「だから、あなたは死ぬの。」
すっと、女は手を離す。
代わりに取り出されたのは──
一体の人形。
朱色で『和泉』と書かれている。
(……同じ……)
参議邸で見たものと──
「ふふ。怖い?」
その一房を、つい、と引く。
ミシッ──
「……っ!!」
足に激痛。
「おかしいと思わなかった?」
女は楽しげに首を傾げた。
「あなた、呪詛を弾くのでしょう?」
紗世は息を荒げながら睨み返す。
「今までのは外からの呪詛。
だから弾けた。」
一歩、顔が近づく。
「でもこれは違う。」
囁くように。
「あなたの髪──あなた自身。
内側から、あなたがあなたを壊しているのよ。」
(……な……に……それ……。)
理解が追いつかない。
その時。
首筋に、冷たい感触が走った。
指先でなぞられるような──
ぬるりとした違和感。
(……なに……?)
声を出そうとして、
気づく。
──出ない。
「ね?声、出ないでしょう?」
女が笑う。
「これで助けは呼べない。」
再び、人形の髪が引かれる。
ミシミシと体が軋む。
(あ……ああ……!!)
叫んでいるのに、無音。
「完璧ね。」
満足げな声。
「これからどうなるか、教えてあげる。」
紗世の視界が滲む。
「あなたはね──
誰にも知られず、死ぬの。
山奥の小さな小屋で。
見つかることもなく。
和泉守の娘、六条御息所の女房とは思えぬ惨めな最期。」
背筋が凍る。
「結界を張るから、たとえ誰かが近くを通っても、小屋には気付かない。声も出ないしね。
助けは、来ないわ。」
逃げ場はない。
完全に。
「さようなら、和泉。」
簾が、静かに下ろされる。
光が遮られた。
そして──
網代車は、再び動き出した。
───六条御息所邸
「紗世が、戻ってこない?」
御息所はわずかに眉をひそめた。
「はい。参議邸にてご気分が優れなくなられたとのことで、そのまま一夜、泊まられると──」
女房が静かに頭を下げる。
「体調が……?」
御息所は小さく繰り返した。
「今朝は、何も変わりなかったはず……。」
違和感が、胸の奥に沈む。
そのとき、廊下に控えていた女房──右近が、ぽつりと呟いた。
「……参議邸……?」
「どうしたの、右近。何か知っているの?」
御息所が視線を向ける。
右近は一歩進み、静かに座した。
「実は……昨年、耳にしたことがございます。ただ……和泉の前では申し上げぬようにしておりました。」
「参議邸に関すること?」
「はい。」
右近は一瞬、言葉を選んだ。
「和泉ではなく……源惟成殿に関することにございます。」
「惟成殿……?」
空気が、わずかに張り詰める。
「昨年、参議邸の二の姫君と、惟成殿の縁談が持ち上がったと。」
「……!」
御息所の指が、わずかに動いた。
「春の集まりをきっかけに、二の姫様が惟成殿に想いを寄せられた、と聞いております。」
「その縁談は……?」
「秋頃、白紙に戻されたようです。」
右近は続けた。
「参議様が、出世を餌に婚姻の約束を迫ったことが、かえって惟成殿のお心に障ったとか。あの方は……そのようなことを良しとされぬお方ですから。」
「……そう……。」
御息所は静かに頷いた。
「私どもは、和泉と惟成殿の様子を見ておりましたので……この話は、あえて控えておりました。」
その言葉に、御息所はわずかに目を伏せた。
──胸騒ぎが、形を持つ。
「……明朝」
顔を上げる。
「一番に迎えを出して。必ず、紗世を連れ帰りなさい。」
声は静かだが、強かった。
「必ずよ。」
「……承知いたしました。」
⸻
翌朝
慌ただしい足音が、廊下を打つ。
「御息所様!!」
息を切らせた女房が、ほとんど転がり込むように入ってきた。
「和泉が……和泉が……行方不明にございます!!」
「──どういうことです!?」
御息所が立ち上がる。
「参議邸には、居なかったのですか!?」
「はい……!今朝、牛車と迎えを遣わしましたところ──」
女房は震える声で続けた。
「参議邸の者は『和泉殿はすでに帰られた』と……。」
「帰った……?」
「“網代車が迎えに来て、それに乗られた”と申すのです。」
空気が凍る。
「その迎えは当家の者でしたか?と確認いたしましが──」
女房は首を振った。
「“知らぬ”“とにかく帰った”の一点張りで……。」
沈黙。
「……そんな……!」
御息所の力が抜け、膝が崩れる。
「御息所様!」
支えようとする女房の手を、軽く制する。
顔を上げた。
その目は、もう揺れていなかった。
「衛門府と検非違使に、すぐ捜索を。」
一拍。
「……陰陽頭様にも、お知らせして。」
その声は、決意に満ちていた。
───左兵衛府
「衛門府に女房の捜索依頼が出ている。宮中に出入りがある際はこの女房の事も念頭に入れておけ。」
紙が配られる。
ざわ、と場が揺れた。
「女房だと?」
「どうせ男に捨てられて里に帰っただけだろう。」
軽口が飛ぶ。
その中に、惟成もいた。
「源、お前は別件だ。こちらへ回れ。」
上司が声をかける。
その時だった。
ふと視界に入った紙。
──名前。
次の瞬間。
バサッ!!
隣の武官の手から、紙を引き抜いていた。
「……なぜ……」
目が見開かれる。
「紗世が……」
「源!何をしている!お前は──」
「申し訳ありません!」
食い気味に叫ぶ。
「兵衛佐様!」
一歩、踏み出す。
「私は、この捜索に向かいます!」
空気が変わる。
「六条御息所様の女房にございます!」
その一言で、場の空気が一瞬止まった。
だが、惟成はもう止まらない。
「……許可を」
そう言いながら、すでに体は前へ出ていた。
返事を待たず──
走る。
ただ一人、駆け出していた。




