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第82話 壊れゆく心の器

参議邸訪問の日。


紗世は牛車を降りると、御者と護衛に声を掛けた。


「それでは行ってまいります。護衛の方は中廊門へ行き、待機場所をお聞きください。」


今日の護衛は惟成ではない。宮中行事のため別の者が付いていた。


わずかな心細さを覚えながらも、紗世は邸内へと足を進めた。



通された部屋には、正月らしい華やかな室礼が整えられていた。


几帳、屏風、飾り物――どれも見事で隙がない。


(御息所様のところもすごいけど……さすが公卿家だなぁ。)


思わず見回していると、廊下の向こうから衣擦れの音が近づいてきた。


「二の姫様にございます。」


女房が告げる。


紗世も静かに頭を下げた。


御簾の向こうに、二の姫が座す。


「明けましておめでとうございます。本日はお越しくださり、ありがとうございます。」


若い声。だがどこか、温度がない。


「明けましておめでとうございます。お目にかかれて光栄にございます。」


紗世は丁寧に返した。


「昨年の騒動、当家の女房の不手際によるもの。深くお詫び申し上げます。」


「いえ、そのようにお気になさらず。二の姫様の責ではございません。」


挨拶は滞りなく終わる。


だが――


(……なんか、変だな。)


文ではあれほど詫びと願いが綴られていたのに、やり取りは妙に淡々としている。


周囲の女房たちも動かず、空気が重い。


沈黙が落ちた、その時。


「和泉殿は、源惟成様とはどのような関係なのですか?」


唐突な問い。


「惟成殿……ですか?」


(なんで今それ?)


「ええ。昨年の騒動の折、場を収めようとしていた武官の方です。」


「私との関係というよりは、六条御息所邸の護衛のようなものです。」


「六条御息所邸の……?」


「はい。源氏の君とその随身源惟光様のご縁や成り行きもあり、御息所様に護衛が必要な折に来てくださるようになりました。」


「そうでしたの……。」


それきり、会話は続かない。


(何の確認……?)


居心地の悪さが広がる。


「播磨、贈り物を。」


抑揚のない声。


播磨は一瞬ためらい、


「……しかし、あれは……」


「早く。」


冷たく遮られ、退出した。



沈黙。


紗世は気を取り直す。


「本日の飾り髪ですが、どのようなものをご希望でしょうか?」


「変化がつくなら、何でも。」


「お好みの簪や色は――」


「任せるわ。」


(……やりづらい……。)


戻ってきた播磨が、小さな包みを差し出す。


その手は、かすかに震えていた。


(……震えてる?)


受け取ろうとした瞬間。


「お逃げください。」


ごく小さな声。


紗世にしか届かない囁き。


(え……?)


顔を上げるが、播磨は俯いたまま。


「どうぞ、ご覧になって。」


御簾の内から声が落ちる。


包みを開く。


中には木箱。


蓋を開ける。


コトリ。


朱で『和泉』と書かれた紙の人形(ひとがた)


首、胸、手足に黒い糸が幾重にも巻き付けられている。


「──っ」


背筋が冷えた。


「二の姫様、これは……」


「それは偽物。本物を渡すわけにはいかないから、作ったのよ。」


「……本物?」


「本物には――あなたの髪が巻き付いているの。」


心臓が強く打つ。


(髪……?)


嫌な予感が形になる。


「少し、使ってあげるわ。」


人形の首を、髪の糸で締める。


「……っ!!」


見えない力が、紗世の首を絞め上げた。


(っ……!?)


手で掴もうとしても、何もない。


空を切るだけ。


(……弾けない……!?)


いつもなら、何かが壊れるはずなのに。


(どうして……)


息が詰まる。


視界が揺れる。


その時、脳裏に声が蘇る。


──呪詛はな、返さずとも代償を払うことになる


──軽ければ物が壊れる程度だが


──重くなれば……身体、あるいは心に来る


陰陽頭の声。


(……代償……)


「苦しい?少し緩めてあげる。」


ふっと力が抜ける。


「はっ……げほっ……!」


空気を吸い込む。


「なぜ……このような……」


「なぜ?」


声が震えた。


「よくもそんなことが言えるわね……!」


畳を叩く音。


「惟成様よ!!」


空気が震える。


「あの方の隣は、私のものだったのに!!」


再び首が締まる。


床に崩れ落ちる。


(……このままじゃ……)


再び、記憶が浮かぶ。


──感情が妬み嫉みで満たされる


──それでしか自我を保てなくなる


──そして、呪詛を失えば……


一瞬の間。


──廃人だ


(……っ)


目の前の二の姫が重なる。


(この人……このままじゃ……)


「二の姫様!!おやめください!!」


播磨が叫ぶ。


「お優しい方だったではないですか!!」


(……優しかった……?それなら……なおさら……)


紗世は必死に声を絞り出す。


「……だめ……だよぉ……ハッ……このままじゃ……呪詛に……」


「うるさい!!」


今度は胸が締め上げられる。


呼吸が止まる。


(……息……できない……。)


意識が沈みかける。


その時、ふっと力が緩んだ。


「……ああ、そうだったわ。」


冷たい声。


「殺してはいけないのよね。私は、苦しめる役割なのだから。」


(役割……?)


ぞくりとした。


「同じところばかりではつまらないでしょう?」


指先が動く。


ミシミシッ!!


「あああっ!!」


両足首に激痛。


身体が言うことをきかない。


「和泉殿!!」


播磨が駆け寄る。


(……だめ……早く……悪い感情から……この人を…解放しないと……)


紗世は息を整え、言葉を紡ぐ。


「二の姫様……。

お怒りになるのも……当然でございます。

苦しめたいと思うのも……自然なお気持ちです。」


播磨が息を呑む。


「先ほど、“役割”と仰いましたね。」


顔を上げる。


「ならば――

早く終わらせてください。」


「和泉殿!!?」


「……そう。」


静かな声。


「分かっているのね。」


気配が歪む。


「なら、望み通りにしてあげる。」


糸が強く握られた。




───参議邸・中廊門。


「和泉殿は急に具合が悪くなり、本日は当家でお預かりすることとなりました。」


女房が告げる。


「来た時はお元気でしたが……承知しました。明日、迎えに参ります」


護衛は頭を下げた。


「……必要ございません。」


わずかな間。


女房は、微かに笑った。


「こちらで、しかるべく対処いたしますので。」


護衛は違和感を覚えながらも、それ以上踏み込めなかった。


牛車は静かに六条邸へと引き返していった。


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