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第80話 年の始めの、ひとしずく

新年。


年が明け、正月の六条御息所邸は一年で最も賑わいを見せていた。


パタパタと足音が行き交い、衣擦れの音が重なる。


「もうすぐいらっしゃるわ。車宿りへ行ってきてちょうだい。」


「こちらの戴いた贈り物は、どちらへ?」


「御息所様のお召し物を一度替えるわ。袿と唐衣を新しいものを持ってきて。」


女房たちは忙しなく動き回り、邸は華やかな熱気に包まれていた。


その中で紗世は、御息所の髪を正月仕様の飾り髪に結い上げていた。


「御息所様、引っ張りが強くて痛いところはございませんか?」


「ないわ。大丈夫よ。」


「私はここで初めての正月を迎えるのですが、やはり御息所様ともなると、挨拶にいらっしゃる方が多いのですね。」


「そうね。でも昨年までは、ここまでではなかったのよ。」


御息所は穏やかに答えた。


「今年こんなに賑やかなのは、紗世、あなたがいるからではないかしら。」


「私……ですか?」


思わず手が止まる。


「挨拶の文にはね、昨年はなかったお名前が並んでいるの。式部卿様、陰陽頭様。それに贈り物は、常陸宮の姫君、源氏の君の北の方、ほかにもあなたが飾り髪を教えた家々からたくさん届いているわ。」


御息所は少しだけ微笑んだ。


「紗世がいたからこそ、紡がれた縁よ。」


式部卿──末摘花と結ばれた貴族。


そして源氏の君からは、年末に北山の若紫を引き取ったと、葵の上を通じて文が届いていた。葵の上とも、うまくいっているようだった。


「私が御息所様の元へ来たのは、昨年の正月のすぐ後でしたよね。」


紗世はふっと天井を見上げた。


「なんだか……すごく昔のことみたいです。」


「そうね……この一年、本当に色々あったものね。」


御息所の言葉に、紗世の脳裏に次々と出来事がよみがえる。


御息所との出会い。


末摘花の劇的な変化。


紗世誘拐未遂事件。


民部卿の姫君との騒動。


葵の上の意外な一面。


呪詛の事件。


陰陽頭との出会い。


源氏の君による若紫の相談。


そして──紅葉見物の騒動。


(……ろくでもない事件ばっかりじゃん。)


心の中で思いながら、紗世はふっと我に返った。


「……本当に、色々……ご迷惑をおかけしました。」


櫛をそっと置き、その場で思わず土下座する。


御息所はくすくすと笑った。


「いいえ。私は楽しかったわ。昨年は、とてもよく笑ったもの。」


そして、やわらかく続ける。


「紗世。今年も、よろしく頼むわね。」


「はいっ!!」


勢いよく顔を上げる。


「御息所様が幸せに、健やかにお過ごしできるよう、紗世は頑張ります!!」


ぐっと拳を握る紗世に、御息所はまた小さく笑った。


そのあと、紗世はふと視線を向ける。


「……あの、ところで御息所様。」


「なあに?」


「陰陽頭様のこと、どう思われます?」


「……!」


御息所の身体が、わずかに強ばった。


「なぜ、そのようなことを?」


「以前は源氏の君のご様子を気にされることが多かったのに、最近はほとんどなくなりましたよね。それに代わって陰陽頭様が訪ねて来る回数が増えて……」


紗世はあっさりと言う。


「御息所様、とっても楽しそうにお話されているので。」


その瞬間──


『禁断の恋に、落ちてしまいそうだ』


紅葉の渦の中での言葉が、鮮やかによみがえった。


御息所はゆっくりと瞬きをする。


「陰陽頭様は……表向きは軽く見えるけれど、実はとても真面目な方だと思うわ。」


「一人の殿方としては、いかがですか?」


紗世はさらに踏み込んだ。


「紗世。そのようなことはありません。あってはならないのです。」


「……なぜ、あってはならないのです?」


紗世はきょとんとした様子で聞き返した。


御息所は言葉を失った。


元皇太子妃であり、未亡人。

陰陽頭との圧倒的な身分差。

そして、それを自覚しているがゆえの誇り。


「……」


だが、紗世はまっすぐに言った。


「確かに御息所様のご身分は、とても尊いものです。でも……」


少しだけ首を傾げる。


「身分や立場で自分の気持ちを押し殺してたら、もったいないじゃないですか。」


「……もったいない?」


「はい!」


ぱっと明るく笑う。


「せっかく人を慕う気持ちを持てるのに、それを使わないなんて、もったいないです!」


言葉に迷いはなかった。


「持てる感情は、生きているうちに味わい尽くすのがいいと、紗世は思います!」


「生きているうちに……味わい尽くす……。」


御息所は小さく繰り返す。


「命短し、恋せよ乙女!です!」


その瞬間、御息所の中で、何かが静かに軋んだ。


長く守ってきた“常識”が、ほんの少しだけ揺らぐ。


その時──


「御息所様、陰陽頭様が新年のご挨拶に参られました。」


廊下から女房の声が届いた。



女房の声が静かに消えた後、御息所の部屋にわずかな沈黙が落ちた。


「……お通しして。」


御息所は扇を取り、そっと口元に当てた。


紗世はその横顔を一瞬見て、ふっと小さく笑うと、さりげなく一歩下がった。


やがて、衣擦れの音。


御簾の外に、人の気配が現れる。


「新年のご挨拶に参りました。」


いつもの軽やかな声。


けれど今日は、どこかだけ落ち着いて聞こえた。


「お入りください。」


御息所の声は静かだった。


御簾越しに、陰陽頭の姿が座す。


「……新年、明けましておめでとうございます、御息所様。」


「ええ。おめでとうございます、陰陽頭様。」


短い言葉。


だが、それ以上に言葉を重ねることを、互いに少しだけ躊躇うような間があった。


「今年は、ずいぶんと賑やかですな。」


陰陽頭が、ふと周囲の気配を感じ取るように言った。


「紗世のおかげで、縁が広がりましたの。」


「なるほど。あの娘は……人を巻き込むのが上手い。」


くすり、と小さく笑う。


御息所も、わずかに笑みを浮かべた。


「ええ。本当に……」


そのまま言葉が途切れる。


沈黙。


しかし、それは気まずさではなく──


何かを測るような、静かな時間だった。


陰陽頭はふと、視線を上げる。


御簾の向こう。


姿ははっきりとは見えない。


だが、その気配は確かに近い。


「……御息所様」


少しだけ声の調子が変わる。


「昨年は……色々と、守りきれぬ場面もございました。」


紅葉の風。


あの時のことだ。


御息所の指先が、わずかに動く。


「いいえ。」


静かに首を振る。


「守っていただいたわ。」


その一言は、はっきりとしていた。


陰陽頭はわずかに目を細める。


「……そう言っていただけると、救われますな。」


軽く言ったようでいて、その奥には本音が滲んでいた。


再び、静寂。


遠くで女房たちの笑い声がかすかに響く。


だが、この空間だけ、別の時間が流れているようだった。


御息所は、扇の奥で息を整える。


(あってはならない……。)


そう思う。


だが──


(……本当に、そうなのかしら。)


紗世の言葉が、胸の奥で揺れる。


陰陽頭は、何気ない調子で言った。


「本年も、何かあればお呼びください。すぐに駆けつけましょう。」


いつもの言葉。


いつもの距離。


けれど。


「……それは」


御息所の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「務めとして……ですか?」


沈黙。


陰陽頭の眉が、わずかに動く。


「さて」


一拍置く。


「それだけ……なら、楽なのですがね。」


その言葉は、冗談のようでいて、冗談ではなかった。


御息所の心臓が、強く打つ。


扇の奥で、唇がわずかに震えた。


「陰陽頭様は……」


言いかけて、止まる。


言ってはならない。


そう思うのに。


言葉が、消えない。


その時──


「御息所様、次のご挨拶の方がお見えです。」


廊下から声が入る。


空気が、ふっとほどけた。


御息所は小さく息を吐く。


「……本日は、お忙しいようだ。」


陰陽頭が、わずかに笑う。


「また、ゆっくりお話できる折に。」


そう言って、静かに立ち上がった。


御簾の向こうで、気配が遠ざかる。


完全に消えた後も──


御息所は、しばらく動かなかった。


扇の奥で、静かに呟く。


「……もったいない、か。」


その言葉は、誰にも聞かれることなく、空気に溶けた。


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