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第79話 白き冬、終詛の支度

───参議邸・二の姫の居室


夜。


雪は音もなく降り積もり、庭を白く閉ざしていた。


室内には火桶のぱちりと弾ける音だけが、小さく響く。


二の姫は灯りのもとに座り、文を広げていた。


だが、その視線は文字を追っていない。


(……惟成様……。)


指先が、文の端をなぞる。


紅葉見物の日の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


あの渦の中で――


あの女、和泉を庇うように抱き寄せた惟成。


(……どうして……)


胸の奥に、重く沈むもの。


ぎゅ、と文を握りしめた。


「……二の姫様。」


播磨が控えめに声をかける。


「夜も更けております。お休みに……」


「まだいいわ。」


短い返答。


その声には、どこか温度がなかった。


その時――


コトリ。


蔀戸の外で、小さな音がした。


「……誰?」


二の姫が顔を上げる。


返事はない。


播磨が立ち上がり、蔀戸を細く開けた。


冷たい空気が流れ込む。


「……人の気配は……ございません……。」


だが、足元に視線を落とす。


「……これは……」


小さな包みが置かれていた。


白布に包まれた、掌ほどの大きさのもの。


播磨はそれを拾い上げる。


「どこからか、置かれたようでございます。」


二の姫はそれを受け取った。


軽い。


だが、触れた瞬間――


指先に、ひやりとした“違和感”が残る。


「……開けるわ。」


迷いはなかった。


布を解く。


中から現れたのは、小さな木箱。


どこにでもあるような、簡素な作り。


だが、なぜか目が逸らせない。


「……」


ゆっくりと蓋に手をかける。


カタリ。


音が、やけに大きく響いた。


中にあったのは――


朱色の墨で『和泉』と書かれた、人型の紙。


そして、その上に添えられた数本の髪。


さらに、小さく畳まれた紙が一枚。


「……っ」


播磨が息を呑む。


「二の姫様……それは……!」


だが、二の姫は手を止めなかった。


ゆっくりと、その小さな紙を開く。


そこに書かれていたのは、短い一文。


──苦しめたら、網代車に乗せよ

  あとはこちらで


その瞬間。


胸の奥で、何かが“繋がった”。


(……和泉……)


視線が、人型の紙に吸い寄せられる。


(あの女……)


紅葉の中で笑っていた顔。


惟成に触れていた手。


(……奪った……)


どろり、と。


黒い感情が、静かに広がる。


(私から……)


耳の奥で、声がする。


――返して


――奪われた


――どうしてあの子ばかり


「……そう……」


二の姫の唇が、わずかに動く。


播磨がはっと顔を上げた。


「二の姫様……?」


二の姫は、静かに微笑んだ。


だがそれは、以前の柔らかな笑みではない。


冷たく、歪んだものだった。


「……苦しめれば、いいのね。」


ぽつりと呟く。


まるで、当たり前のことを確認するように。


「網代車に乗せれば……あとは、向こうがしてくれる……。」


その声には、迷いがなかった。


播磨の背筋が凍りつく。


「おやめください……二の姫様、それは……」


「播磨。」


静かに呼ぶ。


その一言で、播磨は言葉を失った。


「紙と……筆を。」


逆らえなかった。


「……かしこまりました……。」


筆と紙が運ばれる。


二の姫はそれを受け取り、ゆっくりと筆を取る。


墨に浸す。


その動きは、妙に落ち着いていた。


そして――


迷いなく書く。


──和泉


朱に近い濃い墨で、強く、深く。


「……これで、いいのよね……」


誰にともなく呟く。


人型の紙と重ねる。


指先で、そっとなぞる。


その瞬間――


ふっ、と蝋燭の火が大きく揺れた。


「っ……!」


播磨が息を呑む。


だが、二の姫は微動だにしない。


むしろ、どこか安堵したように目を細めた。


「……不思議ね。」


ぽつりと言う。


「とても……静かだわ。」


その静けさは――


決して“安らぎ”ではない。


深く沈んでいく、底のない静寂。


播磨は震えながら、その姿を見ていた。


(……戻れない……)


そう確信する。


(もう……この方は……)


蝋燭の火が揺れる。


その影は――


もはや、以前の姫君の形をしていなかった。






───とある尼寺。


外は雪。


音を吸い込むような静寂の中、本堂には幾つもの蝋燭が灯されていた。


揺れる炎の中心に、女が静かに座している。


「お呼びでしょうか、姫君。」


近江が一歩進み、頭を垂れた。


「ええ。」


女は振り返らずに言う。


「用意して欲しいものがあるの。」


「何をご用意いたしましょう。」


近江の声は、いつも通り淡々としていた。


「鞍馬の奥――」


女の視線が、ゆっくりと炎に落ちる。


「人の寄りつかない辺りに、小さな小屋はないかしら。」


「小屋、でございますか。」


「ええ。」


少しだけ、口元が緩む。


「炭焼き小屋のようなものでいいわ。もし無ければ……作らせなさい。」


一拍。


「人一人、閉じ込めておける程度の大きさで。」


蝋燭の火が、ふっと揺れた。


近江の指先が、わずかに動く。


だが、すぐに静まる。


「……なるほど。」


短く応じる。


「用途は……監禁、ということでよろしいでしょうか。」


「話が早いわね。」


女はくすりと笑った。


「そう。逃げ場のない場所が必要なの。」


静かな声音。


だが、その言葉には迷いが一切なかった。


近江はさらに問う。


「密教僧の手配も、必要でございましょうか。」


「ええ。」


今度は即答だった。


「時期を見て、腕の立つ者を。口の軽くない者がいいわ。」


「承知いたしました。」


近江は一礼する。


「場所の選定、小屋の手配、僧の確保――すべて整えて参ります。」


その言い方は、まるで日常の用事を請け負うかのように滑らかだった。


「頼んだわ。」


女は再び炎へ視線を戻す。


近江は音もなく下がり、そのまま本堂を出ていった。


戸が閉じる。


静寂が戻る。


蝋燭の火だけが、ゆらゆらと揺れている。


女はその揺れを、じっと見つめた。


(和泉……)


心の中で名をなぞる。


(もう、終わりよ。)


指先が、わずかに動く。


(呪詛を弾こうが……)


唇が、ゆっくりと歪む。


(次は、“外から”ではないもの。)


炎が、大きく揺れた。


(逃げ場のない場所で――)


影が、歪む。


「せいぜい……」


低く、囁くように。


「残り僅かな時間を楽しむといいわ。」


その声には、慈悲の欠片もなかった。


蝋燭の火が、ひときわ強く揺れる。


その影は――


まるで、獲物を追い詰めるもののように、静かに広がっていた。

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