第78話 流れた縁の行き先
紅葉見物から数日後。
惟成は参議邸へ呼び出されていた。
(二の姫様ではなく……参議様から、か。)
わずかな違和感を覚えながら、牛車を降りる。
通された部屋には参議が座しており、その奥、御簾の向こうに二の姫の気配があった。
「お久しぶりでございます。参議様。」
惟成は深く頭を下げる。
「うむ。よく来たな。」
穏やかな声。
だが次の言葉は、あまりにも直截だった。
「今日はな、二の姫との縁談の話を進めようと思うてな。」
「───!?」
思わず顔を上げる。
「二の姫とは、これまで文のやり取りもあり、当家にも足を運んでおるのであろう?」
「は……はい。しかし、それはあくまで季節の挨拶程度で……」
言葉を選びながら続ける。
「私はまだ十二にございます。婚姻の話を進めるには、いささか早いかと……」
参議は軽く手を振った。
「何も、今すぐ婚姻せよとは言っておらぬ。ただ“約束”をしてほしいのだ。」
「しかし――」
言いかけたその時。
御簾の向こうから、静かな声が落ちた。
「今から婚姻の約束をしていると周囲に知らしめておけば、惟成様の出世は早まるはずです。」
その声には、以前感じた柔らかさがなかった。
「そうだな。」
参議も頷く。
「今は兵衛府でも、いずれは近衛中将ほどまでは上がれるであろう。無用な苦労をせずともな。」
少しだけ身を乗り出す。
「惟成殿にとっても、悪くない話だと思うが?」
「……」
惟成は言葉を失った。
その沈黙を見て、二の姫がさらに言葉を重ねる。
「……それとも。」
わずかな間。
「私以外に、お慕いしている方でもいらっしゃるの?」
空気が、ひやりと冷える。
「……そのようなことは、ございません。」
「ならば、問題はないでしょう。」
即答だった。
その声音は、あまりにも冷たかった。
(……二の姫様……?)
惟成の胸に、小さな違和感が残る。
傍らの播磨も、わずかに視線を落とした。
(以前は、もっと……やわらかな御方でいらしたのに……)
惟成は一度目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……私は。」
静かに言う。
「出世するならば、自分の力でと考えております。」
参議を真っ直ぐ見据える。
「身内や……ましてや、北の方となる方の力に頼るつもりはございません。」
一瞬の静寂。
参議は小さく笑った。
「本当に、真面目だな。」
だがすぐにその表情を消す。
「だがな、真面目さが通じぬのが宮中という場所だ。」
低く、現実を告げる声。
「それも、承知しております。」
惟成は一歩も引かなかった。
「ですが――婚姻と出世を結びつけるつもりはございません。」
はっきりと言い切る。
「此度の縁談、誠にありがたくはございますが……その理由であれば、お受けいたしかねます。」
参議はしばらく惟成を見つめ、やがて息を吐いた。
「……二の姫。」
御簾の向こうへ声を投げる。
「惟成殿には、まだ早いようだ。もう少し世の中を知ってからでも遅くはあるまい。」
「……そうでございますね。」
返ってきた声は、どこか感情が抜けていた。
「縁談は、一度白紙に戻そう。」
参議はそう言い、少しだけ柔らかく続ける。
「だがな、二の姫とは今後も良い関係を続けてくれ。」
「承知いたしました。」
惟成は深く頭を下げ、その場を辞した。
⸻
帰りの牛車の中。
惟成は天井を見上げたまま、心の中で叫んでいた。
(あああああ……焦った……!!)
表情はいつも通りだが、内心は冷や汗ものだった。
(危うく縁談が決まるところだった……参議様、あの切り出しは反則だろう……。)
ごろりと横になる。
(だが、白紙になったのは助かった……しばらくは気にせずに済む……。)
そこでふと、御簾の向こうの気配を思い出す。
(……二の姫様……)
視線がわずかに曇る。
(あんな雰囲気だったか……?)
以前のやり取りが脳裏に浮かぶ。
もっと柔らかく、言葉にも温度があったはずだ。
(……体調でも悪いのか……?)
少し考え、
(腹でも痛かったのかもしれんな。)
と、結局そこに落ち着いた。
───二の姫の居室。
「……二の姫様。」
播磨が、控えめに声をかける。
「なに?」
返事はすぐだった。
だが、どこか刺すような響きがある。
「どこか……お加減が優れないのでは?」
「そのようなことはないわ。」
間髪入れず返される。
「なぜそう思うの?」
視線が向けられる。
播磨は一瞬、言葉に詰まった。
「……いえ……その……」
言葉を選ぶ。
「そのように、感じただけでございます……」
「そう。」
それだけだった。
会話は途切れる。
沈黙が、重く落ちた。
播磨は視線を伏せる。
(……違う……)
胸の奥で、はっきりとした違和感が膨らむ。
(“体調”ではない……)
ちらりと二の姫を見る。
(……何かが、変わってしまわれた……。)
その確信だけが、静かに深まっていった。
───とある尼寺。
紅葉はとうに散り、庭には薄く雪が積もっていた。
音を吸い込むような静けさの中、本堂だけが異様な気配を帯びている。
幾つもの蝋燭が灯され、その中心に、一人の女が座していた。
炎が揺れるたび、影もまた歪む。
「姫君、少し面白い噂が。」
背後に控えていた女房・近江が、抑えた声で告げた。
「面白い噂?」
女はゆるやかに振り返る。
その動きは静かで――どこか生気が薄い。
「参議家の二の姫の縁談が、流れたそうです。」
「……ほう。」
「お相手は、兵衛志・源惟成。」
その名を聞いた瞬間、女の目がわずかに細められた。
「ああ……あの無礼な武官。」
春の集まりの日。
自分の前に立ち塞がった、あの少年の姿がよぎる。
「それで?」
「二の姫が一方的に懸想していたようでございます。出世を餌に縁談を進めようとしたようですが……」
近江は淡々と続ける。
「源殿はそれに応じず、自ら断った形のようです。」
一拍。
「そう……」
女は小さく息を吐いた。
「それはそれは……」
ゆっくりと、口元が歪む。
「二の姫は、さぞ傷付いたでしょうね。」
声音は優しい。
だが、その目には微塵の同情もなかった。
近江はさらに言葉を重ねる。
「そして、これは表には出ておりませんが――」
わずかに声を落とす。
「源惟成と、六条御息所邸の和泉が恋仲ではないか、と。」
空気が、ぴたりと張り詰めた。
「縁談を断った理由も、それではないかと……一部では囁かれております。」
「……っふ。」
女の肩が、小さく震えた。
「ふふ……ふふふ……!」
笑いが、じわじわと広がる。
「なるほど……」
ゆっくりと立ち上がる。
「それは――実に、都合が良いわね。」
傍らに置かれていた小さな木箱に手を伸ばす。
指先で、そっと蓋を撫でる。
「先日の“集団呪詛”……」
わずかに首を傾げる。
「あれは、途中で腰が引けた者たちのせいで、中途半端に終わってしまったもの。」
カチリ、と音を立てて蓋を開く。
中には、小さく折り畳まれた紙。
そこには朱で書かれた名――『和泉』。
そして、その上に絡むように置かれた数本の髪。
蝋燭の火が揺れ、影がそれを舐めるように伸びる。
「呪詛を弾く力がある……かもしれない、ね。」
女はそれを指でつまみ上げる。
「でも――」
唇が、ゆっくりと歪む。
「“外側からのもの”だけとは限らないでしょう?」
ぽとり、と髪を箱に落とした。
「次は……どうかしらね。」
その声は、どこか楽しげだった。
女は顔を上げる。
「近江。」
「はい。」
「参議家の二の姫に、届けてほしいものがあるの。」
近江は一瞬も迷わない。
「何を、お届けいたしましょう?」
女はくすりと笑った。
「言葉はいらないわ。」
木箱の中を、軽く指で示す。
「恨みや憎しみを抱えている者なら……それが何か、すぐに分かるはずだもの。」
近江は静かに頭を下げた。
「――承知いたしました。」
音もなく踵を返し、本堂を出ていく。
その背が闇に溶ける頃。
残された女は、再び蝋燭の中心に座した。
炎が、大きく揺れる。
その影は――
まるで、人ならざるもののように、歪んでいた。




