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第77話 呪(まじな)いの代償

───六条御息所邸


紅葉見物の翌日。


相模は御息所に呼び出されていた。


(何かしら。)


廊を歩きながら、胸の奥に小さなざわめきが広がる。


(もしかして、“おまじない”のこと……?)


疑われているのではないかと、一瞬足が止まりかける。


けれどすぐに歩き出す。


(そんなはずないわ。)


何事もなかったかのように、御前に座した。


「お呼びでしょうか。」


静かに頭を下げる。


「入りなさい。」


御息所の声は、いつもと変わらず穏やかだった。


「母君のご様子はいかがでしたか?」


そうだった。昨日は母の看病を理由に休んだのだった。


相模は顔を伏せたまま答えた。


「お陰様で、薬湯を飲み横になれば良いと……大したことはないようでございます。」


ゆっくりと顔を上げる。


その瞬間だった。


場の空気が、凍りついた。


誰かが息を呑む。


一人ではない。その場にいた女房たち全員が、同時に息を詰めた。


相模は一瞬、何が起きたのか分からず目を瞬いた。


「……相模?」


御息所の声が、わずかに揺れる。


「あなた……どうしたの?」


どうしたとは。


意味が分からない。


隣にいた女房が慌てて袖を引いた。


「ちょっと、相模……」


小さな声が震えている。


「今日、鏡見た?」


「……え?」


「その顔……どうしたのよ……。」


言葉を探すように、女房は続けた。


「あなた……母君より具合悪そうよ……。」


(何を言っているの…?)


そう思いながらも、相模はゆっくりと自分の頬に触れた。


違和感があった。


指先に触れる感触が、いつもと違う。


頬の丸みがない。


骨ばった感触が、直接指に伝わる。


唇に触れる。


乾ききり、ひび割れている。


髪に触れる。


ざらりと絡まり、指が途中で止まった。


「……なに……これ……。」


掠れた声が漏れる。


その時になって、ようやく気付いた。


全員が、自分を見ている。


異様なものを見る目で。


「……相模」


御息所が静かに言った。


「しばらく休みなさい。

あまりにも辛いようであれば、里へ下がることも許します。」


その声は穏やかだったが、そこにははっきりとした距離があった。


「……はい……」


立ち上がる動作がわずかにぎこちない。


「御前、失礼いたします……。」


相模はほとんど逃げるように部屋を出た。




部屋の中に、重い沈黙が落ちた。


御息所はゆっくりと息を吐いた。


「陰陽頭様を、お呼びして。」


その言葉は静かでありながら、迷いはなかった。



───


静まり返った室内に、陰陽頭の声だけが淡々と響いた。


「呪詛の代償でしょうな。」


あまりにもあっさりとした口調だった。


「呪詛は、返されるかどうかとは別の話でね。行った時点で、実はそれに見合った代償を払っているのです。」


紗世は、ふと昔、現代の記憶を思い出した。


「等価交換……みたいな……?」


小さく呟く。


陰陽頭は目を細めた。


「等価交換、か。面白い言い方だ。その通りだよ。もっとも、何を差し出すかは人それぞれだがね。」


「今回は……」


軽く肩をすくめる。


「女房殿の外見に、出たようだ。」


その言葉に、空気が重く沈んだ。


「……治るの……ですか?」


御息所の声は、かすかに震えていた。


陰陽頭は、ほんの一瞬だけ間を置いた。


「代償は、払ったら終わりです。戻ってくるものではありません。」


沈黙が落ちる。


紗世が、おそるおそる口を開いた。


「代償って……外見以外だと、どうなるんですか?」


「軽ければ、身の回りの物が壊れる程度。」


指折り数えるように、淡々と続ける。


「だが、強くなれば――自分や近しい者の体を蝕む。軽い不調から、命に関わるものまでね。」


「……今回の相模殿は……」


紗世が言葉を探す。


「健康……ですか?」


「おそらくね。命に関わるものではない分、まだ軽い方だ。」


そこで少しだけ口元を歪めた。


「もっとも、女人にとって“外見”を奪われるのは、別の意味で重いがね。」


誰も笑わなかった。


陰陽頭は続ける。


「大きな代償としては――精神崩壊、というのもある。」


御息所の扇が、わずかに揺れた。


「精神……崩壊……?」


「自分の醜い感情に、呑まれるのですよ。」


その声は静かだったが、やけに重く響いた。


「人は本来、様々な感情を持っている。だが呪詛に手を染め続けるとね……」


ゆっくりと紗世を見る。


「妬み、嫉み、憎しみ、怒り――それだけで満たされていく。」


紗世は息を呑んだ。


「そうして、最後には……それらの感情でしか自我を保てなくなる。」


静寂。


「和泉殿に呪詛を向けている“核”の人物は、おそらくそこまで行っているだろうね。」


御息所と紗世の表情が、同時に強張った。


紗世が、震える声で言う。


「……じゃあ、その人が呪詛を失ったら……?」


「……廃人だ。」


間を置かず、言い切った。


「生ける屍のようになるだろう。」


「──っ」


紗世は思わず俯いた。


「……和泉殿。」


陰陽頭の声が、少しだけ低くなる。


「相手を哀れむ必要はない。裏を返せば、それだけ君を破滅させようとしているということだ。」


紗世は何も言えなかった。


御息所が静かに口を開く。


「……いずれにしても、相模には暇を出すつもりでしたが……」


陰陽頭は小さく息を吐いた。


「里に下がったまま、戻れますまい。」


「戻れない……。」


御息所の声に、わずかな陰りが差す。


紗世が顔を上げた。


「昨日の呪詛……複数って言ってましたよね?」


「ああ。」


「何人くらいなんですか……?」


「そうだな。“核”を含めて四、五人といったところか。」


「そんなに!?」


紗世の声が裏返る。


「……そんなに……私……」


「恨まれている、というよりは――」


陰陽頭は軽く肩をすくめた。


「逆恨みだろうね。」


「逆恨み?」


「自分の男を奪われた、という。」


「え!!?」


紗世が思わず身を乗り出した。


「私そんな関係の殿方いませんよ!?しかも複数って!!」


慌てて続ける。


「ていうか、なんでそれが分かるんですか!?」


陰陽頭は、あっさりと言った。


「昨日、聞こえていただろう?」


「え?」


「風の中でね。」


指を立てる。


「『返して』

『奪われた』

『どうしてあの子ばかり』――と。」


紗世は口を開けたまま固まった。


「つまり、原因は明白だ。」


さらりと結論づける。


「和泉殿人気に対する嫉妬だね。」


「……ええぇ……」


力が抜けた声が漏れる。


しばらくして、ぽつりと呟く。


「じゃあ……殿方への返事は、曖昧にせずきっぱり断った方が……」


「そうすると今度はね。」


間髪入れず返す。


「『つれない』『冷たい』『こんなに想っているのに』と、男から恨まれる。」


「どうしたらいいんですか!!?」


思わず叫んだ。


陰陽頭は笑った。


「それが、恋というものの厄介なところだよ。」


室内に、わずかな苦笑が広がる。


御息所が静かに話を戻した。


「……紗世への呪詛は、今も続いていると仰いましたね。」


「ああ。」


「今後、どのようなことが起こり得るのでしょうか。」


陰陽頭の目が、わずかに細くなる。


「相手も気付いているだろう。和泉殿には呪詛が効きにくい、と。」


空気が張り詰める。


「そうなれば――より強い呪詛。あるいは“禁術”に手を出す可能性もある。」


「禁術……!?」


紗世の顔色が一気に変わった。


「命懸けになる。普通はやらない。」


静かに言う。


「だが、理性を失った者は別だ。」


紗世は俯いたまま動けなくなった。


その空気を変えるように、陰陽頭が軽く手を叩いた。


「とはいえ、私もいる。」


少しだけ柔らかい声になる。


「和泉殿も、御息所様も、この邸の者も守るために来ているんだ。」


「……はい……」


それでも紗世の声は弱い。


陰陽頭はにやりと笑った。


「それに、和泉殿には強力な守りがもう一つあるじゃないか。」


「え?」


「呪詛を物理で弾く恋人、惟成くんが。」


背中をばしばし叩く。


「ちがっ!惟成殿と私はそんな関係じゃ――」


「ええ?昨日あんなにイチャイチャしていたのに?」


「してません!!」


すぐに女房たちが囁く。


「してたわよね。」


「惟成殿に抱き寄せられて。」


「笑ってらしたものね。」


御息所も扇を寄せ、口元を隠しながら微かに笑った。


「紗世。」


やわらかい声。


「まだ起きていないことを恐れても仕方がないわ。」


紗世が顔を上げる。


「今は、陰陽頭に頼りましょう。」


その言葉は、静かで――


確かな支えだった。

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