第76話 揺れる夜
───参議邸・二の姫の御簾の内(夜)
灯りはひとつ。
女房たちも、下がっている。
静かな夜。
それでも、二の姫は、眠れなかった。
(……惟成様……。)
目を閉じる。
思い出されるのは紅葉ではない。
景色でもない。
あの、一瞬。
紗世の肩を掴む手。
引き寄せられる身体。
そして――
“あの距離”
「……っ……」
思わず、目を開ける。
(違う……。あれは……護衛……。)
自分に言い聞かせる。
(仕事として……当然のこと……。)
なのに。
胸の奥が、じわりと熱い。
(……どうして……)
あの時、惟成はあんな顔をしていただろうか。
普段の、堅い顔ではなかった。
(……あんな顔……私には……一度も……)
ぎゅっ
袖を握りしめる。
(……おかしいわ……。)
思考が、ゆっくりと傾いていく。
(私の方が……
先に……
想っていたのに……。)
静かな部屋に、自分の呼吸だけが響く。
その時。
ふわり
空気が、揺れた。
「……?」
顔を上げる。
風は、ない。
戸も閉まっている。
なのに――
灯りが、すっと揺れた。
「……寒い……。」
ぞくり、と背筋が震える。
その瞬間。
ドクン
胸が、大きく鳴った。
「……っ……」
次の瞬間。
“思い出す”
紗世の笑顔。
惟成の声。
あの距離。
ぐちゃり
感情が、混ざる。
(……羨ましい……ズルい……どうして……。)
ドクン
さっきより強い。
(……どうして私じゃないの?)
その言葉が初めて、はっきり形になった。
「……っ……」
自分で、自分の言葉に驚く。
(違う……。そんなつもりじゃ……。)
否定しようとする。
だが。
ドクン
止まらない。
(……私の方が……)
ゆっくりと、確信に変わっていく。
(……ふさわしいのに。)
その瞬間。
ふっ
灯りが、消えた。
「……え……?」
闇。
完全な、闇。
そして。
すぐ近くで、“気配”がした。
『……そう』
「――っ!!」
振り向く。
だが、何も見えない。
『……そうよ……』
耳元で、囁かれる。
『……あなたの方が……ふさわしい。』
「……だれ……?」
震える声。
返事はない。
だが――
“理解”だけが、落ちてくる。
(……この声……。……どこかで……。)
思い出しかけて、やめる。
本能が拒否する。
『……奪われたのよ。』
「……ちが……」
『……あなたのものを。』
「違う……!」
強く否定する。
だが。
ドクン
心臓は、肯定していた。
(……奪われた……?)
ゆっくりと、その言葉が染み込む。
(……そう……)
「……そう……」
気付けば、同じ言葉を繰り返していた。
(……あれは……)
あの光景。
(……私の場所だった。)
静かに、確定する。
その瞬間。
ぞわり
背後の“何か”が、満足したように揺れた。
『……いい子……』
「……っ……」
逃げようとする。
だが――
足が、動かない。
『……そのまま……』
『……深く……』
言葉が、ゆっくり沈んでいく。
(……もっと……)
自分の中から、別の声が生まれる。
(……もっと……近くに……。
……奪い返す……。)
「……っ……!」
その瞬間、はっきりと理解した。
(……私……)
戻れない。
完全にではない。
だが――
“もう、前と同じではいられない”
静かな部屋で、二の姫は、ゆっくりと息を吐いた。
「……惟成様……。」
その声音は、昼間とは違っていた。
柔らかく、そして――どこか、冷たい。
──六条御息所邸・御息所の寝所
夜。
邸は静まり返り、虫の音だけが細く響いている。
御息所は、几帳の内で横になりながら、昼間の出来事を思い返していた。
(……紗世に、あのような呪詛が向けられるとは……)
胸の奥が、わずかに痛む。
(あの子が、何をしたというの……。)
脳裏に浮かぶのは、無邪気に笑い、紅葉に駆け寄る姿。
そして――
あの激しい風。
(……おそらく……)
ゆっくりと、目を閉じる。
(あの呪詛は……相模。)
思い当たる節はあった。
(私の前では、よく仕えているけれど……)
他の女房たちの言葉が蘇る。
――相模殿、最近少し……
――あの方、和泉殿に対して……
目を開く。
(人の心は、表には出ぬもの……。)
小さく息を吐いた。
(陰陽頭様は、“遊び半分が呪詛の形を成した”と仰っていた……。)
人の妬み。
嫉み。
積もれば、形を持つ。
(……恐ろしいことね……。)
静寂。
その時。
ふと、別の記憶がよぎる。
『禁断の恋に、落ちてしまいそうだ』
――昼間の、あの言葉。
(……っ)
心臓が、ひときわ大きく打った。
(あれは……どういう意味で……)
布を、きゅ、と握る。
(陰陽頭様が……私を……?)
否。
すぐに理性が否定する。
(……戯れ言、でしょう。)
けれど――
思い出してしまう。
紅葉が渦巻く中。
自分を守るように、強く、引き寄せられたあの瞬間。
(……あの時……)
怖かった。
確かに、恐ろしかったはずなのに。
(……不思議と……)
あの腕の中は、揺るがぬもののように感じられた。
(……安心してしまった……。)
自分でも、信じられない感情。
(殿方に、あのように抱き寄せられるなど……)
ゆっくりと、息を吐く。
(……初めて、ね……。)
頬に、わずかな熱。
だが、御息所は静かに目を閉じた。
(……なりません……。)
その声は、誰に向けたものでもない。
(私は……)
言葉は、続かなかった。
ただ、夜の静けさだけが、深く落ちていく。




