第72話 紅い渦
───参議・二の姫の牛車
「な……なによ……あれ……!!」
紅葉が渦を巻き、まるで壁のように立ち上がるその向こう。
六条御息所の一行が、異様な風の中に閉じ込められていた。
目の前の光景に、二の姫は息を呑んだまま動けない。
「二の姫様!ここは危険でございます!お下がりください!!」
播磨が慌てて袖を引く。
「え……?ええ……」
それでも、二の姫の目は離れない。
「でも……惟成様は……惟成様は大丈夫なの!?」
必死に視線を凝らした、その先で――
「───!!」
見えた。
惟成が、ひとりの女房に袿を被せ、その身を引き寄せている姿が。
守るように、覆うように。
あまりにも自然で、迷いのない動きだった。
(……ズルい
羨ましい
……憎い
どうして、私ではないの……)
その瞬間。
胸の奥で、どろりとした感情が溢れ出す。
――そして。
かすかに、何かが“応えた”気がした。
二の姫の指先が、わずかに震える。
だが、その違和感に気付くことなく。
「……ええ、播磨。ここは危険だわ。もう帰りましょう。」
すっと、声が落ちた。
先ほどまでの揺らぎが嘘のように、冷たい声音。
播磨は思わず息を呑んだ。
「……はい。二の姫様。御者、牛車を出しなさい。」
命じながらも、播磨の視線は姫から離れない。
(……今の姫様……少し……)
言葉にできない“冷たさ”が、そこにあった。
牛車が静かに向きを変える。
しかし二の姫の視線だけは、最後までその場から離れなかった。
───六条御息所・紅葉見物の場
陰陽頭の祝詞が、絶え間なく響いていた。
風はなお荒れているが、その勢いはわずかに弱まり始めている。
(今回は複数人の念だが…遊び半分のもの。返すだけなら造作もない。)
視線を落とす。
腕の中で、六条御息所が静かに息を整えていた。
(返せば終わる。……その代わり、失うものが大きい…。)
呪詛を返せば、すぐに分かる。
誰が、どこから、この念を放ったのか。
そしてそれは――
御息所のもとに仕える女房であるという事実も。
(この方が、それを知れば――)
一瞬、逡巡がよぎる。
その時だった。
袿の内から、御息所が静かに顔を上げた。
「……もしかして、当家の者が関与しているのでしょうか?」
「―――!」
陰陽頭は目を見開いた。
「お気付きでございましたか……。」
「女人は、感情を表に出さぬ分、人の視線や気配には敏感なのですよ。」
穏やかな声音。
だが、その奥には確かな確信があった。
「……今日、供に来ていない……私の側仕えでしょうか?」
「そこまでお見通しとは……恐れ入りますな。」
陰陽頭は小さく息を吐いた。
そして、わずかに笑みを浮かべる。
「お優しいのですね、陰陽頭様。」
御息所の声が、静かに続く。
「呪詛を返せば、その女房の主人である私がどうなるか――考えておられるのでしょう?」
「……。」
図星だった。
陰陽頭は何も答えず、ただ一瞬目を伏せる。
「ですが、構いません。」
御息所の瞳が、まっすぐに向けられる。
「人を傷つける者は、許すべきではございません。」
その言葉には、揺らぎがなかった。
か弱く見えるその身の内に、強い意志が宿っている。
陰陽頭は、ゆっくりと目を細めた。
「……やはり、御息所様は見目も、お心もお美しい。」
そして、ふっと口元を緩める。
「禁断の恋に、落ちてしまいそうだ。」
「……えっ?」
一瞬、空気が緩む。
だが次の瞬間。
陰陽頭の気配が変わった。
祝詞の調子が、わずかに低く――重く、鋭く変わる。
風が、びりりと震えた。
「――では、遠慮なく。」
低く呟き、声を張る。
その響きは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
場の空気そのものを押し返すように、
祝詞が、強く、強く満ちていく――。
陰陽頭の祝詞が、場の空気を押し返すように響いていた。
荒れ狂っていた風は、徐々に鎮まりつつある。
舞い上がっていた紅葉も、少しずつ落ち始めた。
「……よし」
陰陽頭が小さく息を吐く。
「これで一度、散らせる――」
その瞬間だった。
ピシッ
何かが“ひび割れる”ような音がした。
「……?」
陰陽頭の目が細くなる。
次の瞬間――
ザァァァァァァッッ!!!
先ほどとは質の違う風が、横から叩きつけるように吹き込んだ。
「なっ……!」
空気が歪む。
まるで、別の“流れ”が割り込んできたようだった。
「陰陽頭様……!?」
紗世を押さえ込んでいた惟成が声を上げる。
「……来たか。」
低く呟く。
「“もう一つ”だ。」
───とある貴族邸
「さあ、遠慮なさらずに。」
相模が、にこやかに言った。
床にはいくつもの守袋。
女房たちはそれを手に取り、
叩きつける。
踏みつける。
懐剣で突き刺す。
ドンッ!!
「……っはぁ……スッキリするわ……。」
一人の女房が、荒い息を吐いた。
その時だった。
ボッ……
誰も触れていないはずの灯が、ゆらりと大きく揺れた。
「……?」
「今、火が……」
一瞬の静寂。
だがすぐに、
「気のせいよ。」
「ほら、続けましょう?」
笑い声が上書きする。
――しかし。
その場の空気は、確実に“濃く”なっていた。
見えない何かが、ゆっくりと集まり始めている。
───嵐山
「……面倒なことをしてくれる……。」
陰陽頭の声が、わずかに低くなる。
風が、二重にうねっていた。
一つは先ほどまでの念。
もう一つは――
「増幅している……?」
惟成が呟く。
「違う。」
陰陽頭が即座に否定した。
「これは“混ざっている”」
ゴウッ!!
風がぶつかり合い、渦を巻く。
先ほどまで“散らせていた”念が、別の念と絡みつき、形を変え始めていた。
「……なるほどな。」
陰陽頭は空を睨む。
「一人ではないとは思っていたが――
ここまで雑多に混ぜてくるか。」
───とある貴族邸
「最後は――燃やすのよね?」
「ええ。全部、燃やしてしまいましょう。」
女房たちが笑う。
守袋が、火にくべられた。
ぱちっ
火が、わずかに跳ねた。
その瞬間――
ぞわり、と空気が震えた。
一人の女房が、思わず肩を抱く。
「……寒い……?」
「え?今日はそんなに寒くないわよ?」
だが、誰も守袋を燃やす手を止めない。
燃える守袋から、目に見えない“何か”が、立ち上っていく。
それはまるで、行き場を探すように――
───嵐山
ドンッ!!
空気が、弾けた。
「――っ!」
陰陽頭の張った結界が、大きく歪む。
「なに!?」
紗世が声を上げる。
「動くな!」
惟成が押さえつける。
「これは……!」
陰陽頭の額に、わずかに汗が滲んだ。
「“流れてきている”……!」
遠くから。
別の場所で生まれた念が、ここへと流れ込み先ほどの呪詛と“繋がった”。
「まさか……こんな形で干渉するとは……」
ゴオオオオオッ!!
風がさらに強まる。
紅葉が、刃のように舞い上がる。
結界が軋む。
「陰陽頭様!!」
「……大丈夫だ。」
そう言いながらも、声に、わずかな重みが混じる。
「だが……」
空を睨み、低く言った。
「これは……想定外だ。」
紗世の周囲で、風が不自然に弾けた。
ビシッ!!
紅葉が紗世に触れる前に、砕け散る。
「……あれ?」
紗世が首を傾げる。
「今の……」
「……和泉殿。」
陰陽頭が、わずかに笑った。
「君、本当に厄介だな。」
「え?」
「弾いている。」
「しかも――」
ゴオッ!!
風の流れが、一瞬だけ逆転した。
「……無意識で、干渉している。」




