第70話 紅葉見物
───紅葉見物の日・嵐山
牛車の軋む音。
人々のざわめき。
行き交う従者たちの声。
嵐山は、紅葉よりも人で溢れていた。
「うわあ〜〜!すっごい牛車の数!!
紅葉の赤や黄色より、牛車の黒の方が多いですね!」
紗世は思わず声を上げた。
「私達も牛車を三台と控えめにしたけれど……今は紅葉見物の時期ですもの。仕方ないわね。」
御息所がやや困ったように眉を下げる。
「紅葉見物は男女の出会いの場でもありますからねぇ。」
馬上の陰陽頭が、周囲を見渡しながら肩をすくめた。
「もはや紅葉見物より、人間観察の方ができそうだ。
御息所様。今回私達は出会いを求めて来た訳ではありません。
もしよろしければ、人の少ない紅葉の穴場へご案内しますよ。」
穏やかな声だった。
「そうね。今日は人が少ないところの方が良いわね、紗世。」
「はいっ!紗世は御息所様とゆっくり紅葉が見られるならどこでも!」
紗世はにこっと笑った。
「それに――」
陰陽頭が、後ろに控える惟成へと視線を流す。
「これ以上ここにいると、惟成くんが文で着膨れしてしまいそうだ。」
「……文で着膨れ?どゆこと?」
バサッ!
紗世が勢いよく簾を持ち上げた。
「ばかっ!簾を無闇に上げるな!
御息所様まで丸見えになるだろう!!」
すかさず惟成が簾を叩き下ろす。
「いやー、嵐山に着いてからというもの、他家の姫君の遣いがね。」
陰陽頭はくくっと笑った。
「惟成くんの袂に、文をねじ込んでいくんだよ。」
「なっ……違います!」
惟成は慌てて否定する。
「仕事中だとお断りしているのですが……」
「うん。君が受け取らないから、“渡した者勝ち”って感じでね。」
「ホントだー。文が入ってる。」
紗世は簾の隙間から腕だけを出し、惟成の袂をぐいっと引いた。
「なっ……よせ!やめろ、触るな!
……おい!文を取るんじゃない!!」
陰陽頭は馬上で大笑いし、御息所も御簾の中で肩を震わせていた。
⸻
──嵐山・同時刻
「二の姫様、また他家の牛車からお文が参りましたよ。」
播磨が、紅葉を添えた文を差し出す。
参議の二の姫もまた、嵐山に紅葉見物に来ていた。
二の姫は、その文を開けることなく、ただ静かに眺める。
「これが惟成様からのお文だったら……どんなに良いか。」
小さく、ため息がこぼれた。
「二の姫様は一途でいらっしゃいますものね。」
播磨はそう言いながら、御簾越しに周囲へ目をやった。
その時だった。
人だかりの中に、ひときわ目を引く姿があった。
馬上の若い武官。
その周囲に、次々と人が寄っていく。
(あれは……どこの……)
目を凝らし――
(あっ)
気付いた瞬間、播磨は声を上げた。
「二の姫様!!あれをご覧ください!!」
袖を引かれ、二の姫もそちらを見る。
「なあに?播磨――」
視線の先。
見慣れた横顔。
人に囲まれ、何かを断っている姿。
その姿を、二の姫はじっと見つめた。
「……あれは……」
次の瞬間。
「惟成様!!!?」
「今日は護衛のお役目があると仰っていましたが……」
播磨が静かに言う。
「紅葉見物に来る貴族の護衛だったのですね。」
二の姫の瞳が、ぱっと輝いた。
「こんな所で……こんな人混みで見つけられるなんて……運命だと思わない?播磨。」
「そうでございますね、二の姫様……」
二人は並んで惟成を見つめる。
その時だった。
惟成が護衛する牛車から――
すっと、女の手が伸びた。
そのまま、惟成の袂を引く。
「……っ」
二の姫の視線が止まる。
惟成の表情が、ふと緩んだ。
いつもの硬い顔ではない。
自然体の、年相応の少年の顔。
それを見て、二の姫は息を呑んだ。
「……あれ……牛車の中は、どなたかしら……」
小さく呟く。
「あの牛車は、六条御息所様のもののようです。」
播磨が答えた。
「春の集まりの折も、あの方の護衛でいらしていましたから。」
六条御息所に対して、あのような表情を見せるはずがない。
ならば。
あの牛車の中にいるのは――
惟成が「話しやすい」と言っていた女房。
その存在が、胸の奥に引っかかった。
そうこうしているうちに、六条御息所一行の牛車は、人混みを外れ、やがて細い道へと入っていった。
「どこへ向かうのかしら……。」
二の姫は御簾の内で小さく呟く。
(……いけないわよね、こんなこと……。)
ほんの一瞬、迷いがよぎる。
――けれど。
「御者!あの六条御息所様の牛車の後をつけてちょうだい!
ただし、気付かれぬよう、距離を取って。」
思わず声が強くなる。
牛車の中の女房のことが気になり、もはや紅葉見物どころではなかった。
───六条御息所の牛車
「少し外れただけで、一気に人が少なくなりましたね。」
紗世は御簾越しに周囲を見回した。
「もうしばらく進むと、紅葉が舞う開けた場所に着きます。そこで見物いたしましょう。」
外から、穏やかな声が届く。
「陰陽頭様、よくご存知ですね。」
紗世が感心したように言った。
「ははは。昔、人混みを避けたくてね。それでいて綺麗な景色は見たくて――探して見つけた場所なんだ。」
そんな会話を交わすうちに、牛車はやがて開けた場所へと出た。
「さあ、ここだ。いかがかな?」
そこは、赤や黄色に色づいた紅葉の木々に囲まれた、小さな広場のような場所だった。
「うわぁ〜〜!綺麗!!
私達以外に人がいませんよ!すごい、独り占めですね!!」
紗世は目を輝かせ、声を弾ませる。
御息所は、その様子にくすりと笑った。
「では、ここに敷物と屏風を出しましょうか。」
女房たちや惟成が準備を始める。
その時だった。
「――っあ!何あれ!リス!!?
かわいーー!!」
紗世はぱっと駆け出した。
「なっ……ばか!おまっ……!!」
慌てて惟成が袿を引っ掴んで後を追う。
「ねえねえ、惟成。見てー、りすー。」
木の上を指さし、無邪気に笑う紗世。
バサッ!!
惟成は紗世の頭から袿をかぶせた。
「お前なぁ!一応、六条御息所様の女房だろ!顔を丸出しで走るな、バカタレ!」
「ほら!リスだよ!かわいーよね!!」
「人の話を聞けぇ!!」
「ねえ、惟成。あのリス、捕まえられない?」
「誰が捕まえるか!可哀想だろ!」
「わあ。惟成、やさしー。」
「はあ……ほら、戻るぞ。」
そう言って振り返った瞬間。
紗世は袿をかぶったまま、すでに別の方向へ走り出していた。
「あ!あれ野うさぎ!?跳ねてるー!」
「紗世!!走るな!!止まれ!!戻って来い!!紗世ーー!!!」
惟成の叫びが、静かな紅葉の中に響き渡る。
その様子を、御息所と陰陽頭はどこか微笑ましげに眺めていた。
⸻
「……今、惟成様、“紗世”って……」
参議の二の姫は、少し離れた場所に止めた牛車の中から、その光景を見つめていた。
(あの子……惟成様と、ずいぶん親しげ……
六条御息所様の女房よね……。)
「二の姫様、あの若い女房は……飾り髪の和泉殿かと。」
播磨が控えめに口を開く。
「春の集まりの折、六条御息所様のお側に控えていた女房でございます。
あの時、民部卿の姫君が『あんたが!』と詰め寄っていた――あの女房です。」
二の姫は、はっと息を呑んだ。
(あの日……
惟成様は、あの女房を庇うように、間に入られた……。)
胸の奥で、何かがゆっくりと形を取り始める。
(庇ったのは――あの子……和泉……?)
視線の先では、なおも楽しげに追いかけ合う二人の姿。
その光景に、二の姫の胸の内に黒いものが蠢いた。




