第69話 秋の嵐の前
その日、陰陽頭が紗世と六条御息所邸の祓いのために訪れていた。
すでに邸には、話を聞きつけた源氏の君と惟成の姿もあった。
どこか物々しい空気の中。
だが、その静けさを破ったのは――
「和泉殿!また呪詛をかけられたとか!?大丈夫なのか?」
源氏の君だった。
紗世はしょぼんと俯く。
「私……複数人に恨まれているらしいです……。」
「何か、呪詛と分かるような出来事は?」
惟成が冷静に問いかける。
紗世は指を折りながら答えた。
「うん……簪や櫛が急に割れたり……」
「最近寒くなってきましたからね。乾燥では?」
間髪入れずに返す惟成。
「風もないのに蝋燭の火が消えたり……」
「風の通り道に蝋燭があっただけでしょう。むしろ消す手間が省けたのでは。」
「誰かの強い視線を感じたり……」
「殿方の覗き見でしょう。和泉殿は文も多いと聞きますし。」
「…………」
沈黙。
見事なまでの一致。
次の瞬間。
「あっはははははは!!!」
陰陽頭が腹を抱えて笑い出した。
「やっぱり和泉殿と惟成殿はお似合いだな!
異変への感想が全く同じじゃないか!
はははははははは!!」
その横で、源氏の君は顔を背けている。
肩がわずかに震えていた。
紗世はじとりと見た。
「……源氏の君。笑いたければ笑ってください。我慢は体に悪いですよ。」
源氏の君は咳払いをした。
「……いや、私は何も。」
だが、声が少し震えている。
惟成は軽く顔を赤らめ、咳払いをして話を戻した。
「しかし、本当に呪詛なのですか?
和泉殿の言う異変は、どれも偶然で説明がつきます。」
武官らしい、現実的な声音。
陰陽頭は、ふっと笑みを残したまま言った。
「うん。確かに、そういう場合も多い。
だがね――今回は違う。」
その時。
陰陽頭の視線が、ふと紗世の背後へ流れた。
空気がわずかに張り詰める。
「和泉殿に、女達の念がまとわりついている。」
静かな声だった。
御簾の向こうで、六条御息所が扇をわずかに下げる。
「陰陽頭様。紗世に呪詛をかけている者について、何か分かりましたか?」
「ああ、いくつかは、目星が。」
陰陽頭はそう言いながら――
廊下の柱の影へ、ほんの一瞬だけ視線をやった。
そこに控える一人の女房。
袖が、かすかに震えた。
(……やはり、あれか。
しかも一人ではないな。)
陰陽頭は何事もなかったように視線を外す。
(さて……ここで言う訳にもいかんしな。どうするか。)
腕を組み、天井を仰いだ。
「あの……陰陽頭様?」
紗世が不思議そうに覗き込む。
その時。
庭の方から、ひらりと紅葉が舞い込んだ。
陰陽頭の目が細くなる。
「……そうだ。」
ぱちん、と扇を鳴らした。
「気晴らしに、紅葉見物でもどうだい?」
場の空気がわずかに緩む。
「室内で陰気な話ばかりしても、気が滅入る。病は気から、とも言うだろう?」
「呪詛は病ではありません。」
惟成が即座に返した。
「いやいや、細かいことはナシナシ!」
陰陽頭は軽く手を振る。
「怯えて過ごすより、外に出た方が良い。」
そう言って、御簾の向こうへ視線を向けた。
「ねえ、御息所様?」
御息所は少し考え、やわらかく頷いた。
「そうね……紗世は元気な所が可愛らしいもの。落ち込んでいる姿は、見ていて辛いわ。
紗世、紅葉見物に行きましょうか。」
ぱっと紗世の顔が明るくなる。
「御息所様とお出かけですか!?
はいっ!行きたいです!!」
その様子を見て、源氏の君が微笑んだ。
「紅葉見物か……良いね。
私もご一緒しても?」
だが。
「源氏の君はお控えください。」
陰陽頭が即座に遮った。
「貴方様は都中の姫君達の憧れの的です。
同行すれば――念がさらに増える。」
源氏の君は言葉を失い。
「……それは……」
少し沈黙し。
「……分かった。やめておこう。」
肩を落とした。
だがすぐに顔を上げ、惟成を見る。
「惟成。お前は護衛として同行しろ。」
「……承知いたしました。」
惟成は静かに頭を下げた。
(……まあ、彼も人気はあるが。
護衛名目なら問題ないか。)
陰陽頭は内心で呟く。
そして、ふと思い出したように言った。
「ああ。紅葉見物には私も同行しよう。」
御息所が微笑む。
「まあ。陰陽頭様も?
賑やかになりそうね、紗世。」
「はい!」
紗世は嬉しそうに頷いた。
源氏の君がじとっと見る。
「……私には駄目で、自分は行くのか?
ずるくないか?」
陰陽頭は肩をすくめた。
「私は貴方のようにモテませんしね。
それに、ただのオッサンです。
私が原因で嫉妬されることはありませんよ。」
一瞬の間。
――次の瞬間。
くすり、と笑いが広がった。
やがて、それは邸全体に柔らかく広がっていく。
しかし。
誰も気付いていなかった。
廊下の柱の影で――
一人の女房が、じっと紗世を見つめていたことに。
その指先で、袖の内の何かを強く握りしめていたことに。
──参議邸
二の姫は、惟成から届いた文を手に、小さくため息をついた。
「二の姫様?いかがなさいました?」
側近の女房・播磨が、そっと声をかける。
「惟成様に『紅葉見物にご一緒しませんか』とお文を差し上げたのだけれど……」
二の姫は文を見つめたまま、少し寂しそうに続けた。
「その日は護衛のお役目が入っていると、お返事があったの。」
「そうでございましたか……」
播磨もまた、静かに頷く。
惟成は、初めて参議邸を訪ねてからというもの、二度ほど足を運んでくれていた。
だがいずれも、季節の挨拶と少しの雑談だけで、ほどなく帰ってしまう。
「もう少し……ゆっくりお話ができたらと思うのだけれど……」
二の姫は、かすかに俯いた。
播磨はその様子を見て、やわらかく言葉を選ぶ。
「惟成様は、とても真面目なお方でいらっしゃいますもの。今はお忙しいのでしょう。
次にお会いした折に、紅葉見物のお話をなされてはいかがですか?
ご一緒できなかった分、楽しいお話をして差し上げれば、きっとお喜びになります。」
二の姫は顔を上げ、少し考える。
そして、ふっと表情を明るくした。
「そうね……紅葉見物も、お話の種になるわよね。
綺麗な紅葉があれば、押し花にして栞にして……惟成様に差し上げようかしら。
兵法書を読むと仰っていたもの。」
「それは素敵でございますね。」
播磨も微笑んだ。
「きっと惟成様も、お喜びになるでしょう。」
二の姫も、嬉しそうに頷く。
その後も二人は、どのような装いで行くか、どの辺りの紅葉が見頃かと、楽しげに語り合った。
やがて、邸は静かな夜に包まれていく。
二の姫の胸には、淡くやわらかな期待が灯ったまま――
その夜は、更けていった。




