第67話 呪(まじな)いの連鎖
──六条御息所邸
ぱさり。
女房が抱えていた文の束から、一通が床へこぼれ落ちた。
「ねえ、ひとつ落ちたわよ。」
相模がそれを拾い上げる。
「ああ、ありがとう。」
同僚の女房が受け取ろうと手を伸ばした――その時だった。
相模の手が止まる。
「……この文……」
「……?どうしたの?」
女房は相模の顔を見て、そして文を見た。
その瞬間、顔色が変わった。
「……っあ……!」
差出人の名に気付いたのだ。
最近まで――
相模と頻繁に文をやり取りしていた男。
相模の声がわずかに震える。
「……この文……式部少丞清原様からよね?」
(この紙……添えられている花の結び方……
中身を見なくても分かるわ。)
式部少丞の文は、いつも同じ紙と結び方だった。
(何度も見てきたもの。)
同僚の女房は視線を逸らした。
「え、ええと……そ、そうだったかしら……?」
しかし問題はそこではなかった。
この文は――
相模宛ではない。
和泉宛だった。
男の心が他の女へ移る。
それは、平安の女たちにとって
最も屈辱で、最も胸を掻き乱される出来事だった。
同僚の女房は相模の顔を見ることができず、慌てて文をひったくった。
「わ、私急ぐから!それじゃあ!」
ぱたぱたと廊下を駆け去る。
足音が遠ざかる。
その場に残された相模の拳が、静かに震えていた。
⸻
「和泉、はいこれ。あなた宛よ。」
紗世は数通の文を受け取った。
ぱらぱらと目を通していく。
その中に――
特徴的な紙と花の結び方をした文があった。
「げっ!また式部少丞様だ……。」
紗世は露骨に顔をしかめた。
文を持ってきた女房が、そっと耳打ちする。
「この文……相模にバレちゃったの。」
「えっ!?何で……?」
「さっき相模の前で、よりにもよって落としちゃったのよ。」
沈黙。
紗世の眉がぴくりと動く。
(こっっっの!色ボケ少丞め!
今まで散々、相模殿と文のやり取りして贈り物までしてたくせに!!
私だって何度か取り次いだんだから!)
紗世は小さくため息をついた。
「……でも、私、式部少丞様にはきっぱりお断りの文を出しているんです。」
「知ってるわ。この邸の女房なら誰だって断ると思うわ。」
女房は肩をすくめる。
「同じ邸の女房同士で揉めるなんて御免だもの。」
紗世は項垂れた。
「断りの文も、何度も出しているのですが……。
なぜ、めげずに送ってくるのでしょうか……。」
女房が苦笑する。
「相模に文を送っていた頃は、マメで情熱的なお方だと思ってたけど……
粘着質なだけなのかしらね。」
紗世は小声で言った。
「……相模殿に、断っていると伝えた方が良いでしょうか……。」
女房は即座に首を振った。
「それは絶対やめなさい!
相模の感情を逆撫でするだけよ!」
「ですよねぇ……」
二人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
──六条御息所邸 女房部屋
ばさばさばさっ!!
相模は今まで届いた文を、床にぶちまけた。
(最近、文が来ないと思ったら……)
紙の上には
『恋しい』
『会いたい』
『君を想うと心が乱れる』
そんな言葉が並んでいた。
相模の奥歯が、ぎりっと鳴る。
(他の女に目移りしたってわけね!!)
怒りで視界が赤く染まりそうだった。
(よりにもよって和泉とは……!
和泉も知っていたはずよ!
私と式部少丞様が文をやり取りしていたことくらい!)
どんっ。
相模は文を踏みつけた。
(先輩女房の男を取るなんて……
まだ子供のくせに……どこで色目なんて覚えたのかしら!?)
その時だった。
ぽとり。
相模の懐から、小さな守袋が落ちた。
清水寺で出会った女――近江が渡したものだった。
『もし、心が乱れることがあった時のおまじないでございます。
恨みつらみを紙に書き、この守袋に入れてください。
もし相手がいるなら――朱の墨で名前を書くのです。』
部屋の空気が、妙に静かだった。
相模はゆっくり文机へ向かった。
朱の墨を取り出す。
筆を取る。
指先が、少し震えていた。
白い紙の上に、筆を落とす。
そして書いた。
──和泉
その文字を書き終えた瞬間。
ふっと。
部屋の灯りが、わずかに揺れた。
相模は気付かなかった。
それが――
ただの紙ではなく、呪詛の種になったことを。
それから相模は、和泉への恨みつらみを書いては守袋へ入れた。
最初は一枚、二枚だった。
だが――
書くたびに、胸の内の澱は少しだけ軽くなる。
相模は気付いた。
(これをすれば……心が静まる。)
気付けば、守袋はすぐにいっぱいになった。
新たに守袋を作るほどに。
相模は、夜更けの灯の下で針を動かしていた。
布を縫い合わせながら、ふと手を止める。
(和泉に、あれほど殿方から文が届いているのだもの……。
私のように心移りされた女は、他にもいるはず。)
その瞬間。
相模の瞳に、冷たい光が宿った。
それからの行動は早かった。
和泉宛に届いた男達の文を調べる。
そして――
和泉に送る前、誰と文を交わしていたのかを調べ始めた。
───後日
他家を含む女房たちの小さな集まり。
相模は、呼ぶ相手を慎重に選んだ。
そこに集まったのは――
最近、殿方との文のやり取りが途絶えた女房たちばかりだった。
相模は扇を握りしめ、涙ぐんでみせた。
「最近……ずっと文をやり取りしていた殿方から、文が来なくなってしまったの。」
「ええ!?そうなの?」
女房の一人が声を上げる。
そして、戸惑いながら言った。
「……実は、私も。」
「あなたも!?」
「私もなの!」
場の空気がざわめいた。
「一体……どうして急に……」
相模は扇の陰から、そっと周囲を見渡した。
そして静かに言った。
「……私の場合は、原因が分かったのです。」
「何?」
「何が原因なの!?」
女房たちが身を乗り出す。
相模は、わずかに声を落とした。
「飾り髪の和泉に、文を送り始めていたのです。」
一瞬、沈黙。
「飾り髪の和泉って……あなたの邸の女房じゃない!」
「先輩女房の殿方を取ったの!?」
「最近、和泉の所には殿方からの文が増えているの。」
相模は続けた。
「不思議な力があるという噂のせいかしら。
例えば……」
相模はゆっくり名前を出した。
「刑部尉の橘様。」
女房の一人が息を呑んだ。
「え……橘様……?」
相模はさらに言った。
「それから、民部志の大江様。」
今度は別の女房が青ざめた。
「……まさか……」
ざわざわと場が揺れる。
相模は、ため息をついた。
「私、このことで心が乱れてしまって……。
先日、清水寺で尊い方にお会いしたのです。」
女房たちが顔を上げた。
「尊い方?」
「その方に教えていただいたのです。心を鎮める、おまじないを。」
女房たちは一斉に身を乗り出した。
「おまじない!?」
「どんなものなの!?」
「私にも教えて!」
その時。
相模は扇の陰で、そっと笑った。
誰にも見えないように。
静かに。
───とある尼寺
ゆらり。
蝋燭の炎が大きく揺れた。
女が、ふっと笑う。
「あら……早速、始めたようね。
“おまじない”を。」
近江が、静かに言った。
「意外と早うございましたね。」
蝋燭の炎がさらに揺れる。
「おや……」
女が目を細める。
「相模だけではないようね。」
近江は冷たく言った。
「それほど、和泉が恨みを買う人間ということでございましょう。」
女の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「さあ……もっと、もっと“おまじない”をするがよい。
そうして心を鎮めるのよ。」
女は楽しそうに囁いた。
「念を溜めなさい。
この念が、どこまで膨らむか……楽しみだわ。」
蝋燭の火が揺れる。
炎の向こうで――
二人の女の影が、不気味に揺れていた。




