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第66話 念の種

───とある尼寺


蝉の声が絶え間なく響く本堂に、女が一人いた。


固く握りしめた拳が、かすかに震えている。


「なぜ……」


低く押し殺した声が漏れた。


「なぜ、“呪詛をかけられた女房”や、“呪詛をかけられた源氏の君の北の方”の噂が聞こえてこないの……?」


その時、本堂の入口に人影が現れた。


女の女房、近江である。


「近江……。」


女はゆっくりと顔を上げた。


「“呪詛をかけられた女”の噂は?

どうなっているの……?」


静かで冷たい声だった。


近江は一瞬、言葉を選ぶように黙り込む。


だがやがて、小さく息を吐き、都で広がっている噂を口にした。


「源氏の君の北の方様と、六条御息所邸の和泉が呪詛をかけられた――その話は、都では誰もが知っているようです。」


「だったら、なぜ……!?」


女は鋭く顔を上げ、近江を睨みつけた。


それでも近江は、感情を表に出すことなく続ける。


「……あの晩、呪詛が弾かれましたよね。」


「弾かれただけよ。」


女は即座に言い返した。


「返されてはいない。

もし私に返されていたのなら、私もただでは済まないもの。」


近江は小さく頷く。


「呪詛を弾いたのは、北の方様の方は陰陽師の力によるものだったようですが……」


一瞬、言葉を切った。


「和泉の方は……陰陽師の力だけではなかったようです。」


女の眉がぴくりと動いた。


「どういうこと?」


「呪詛を弾いたのは、和泉自身の精神力によるものが大きい――と。

そこは陰陽頭も認めているとの話です。」


女は目を見開いた。


近江はさらに続ける。


「それゆえ、都では――」


近江はゆっくりと言葉を並べた。


「“六条御息所邸の和泉には、呪詛すら弾く不思議な力がある。”


“飾り髪には、呪詛から身を守る効力がある。”


“源氏の君の北の方様が助かったのは、直前に和泉から飾り髪をしてもらっていたからだ。”」


本堂に蝉の声が満ちる。


近江は静かに言った。


「“呪詛をかけられた女”という噂よりも……

“呪詛を弾く飾り髪”と、“不思議な力を持つ和泉”の方に、注目が集まってしまったようです。」


女の奥歯が、ぎり、と鳴った。


近江は、あまり言いたくないことを口にするように目を伏せた。


それでも、言葉を続ける。


「今、都では……


和泉の飾り髪を求める姫君達と、

不思議な力――あるいは、その魅力を求める殿方達によって……


六条御息所邸には、和泉宛の文が殺到しているようです。」


女の拳が大きく震えた。


──次の瞬間。


バァン!!


激しい音が本堂に響いた。


女が床を強く叩いたのだ。


「……あの!」


女の声が震える。


「女房風情の……卑しい女が!!


もういいわ!もう、許さない!!


最終手段よ!!」


怒りに満ちた声が本堂に響く。


しかし。


「お待ちください。」


近江の声は、氷のように冷静だった。


女が鋭く睨みつける。


近江は静かに言う。


「今、六条御息所邸には定期的に陰陽頭が訪れているようです。


おそらく呪詛の類を防ぐ結界などを張っているのでしょう。


最終手段を使っても、陰陽頭に気付かれれば――終わりです。」


女の目が怒りで燃える。


「……じゃあ、どうするのよ!」


近江は一歩進み、静かに言った。


「姫様。


人の心というものは……」


わずかに笑みを浮かべる。


「憧れや羨望よりも、妬み嫉みの方が生まれやすいものです。」


女は黙って聞いている。


近江は続けた。


「今の和泉の状況を、面白くないと感じている者も大勢いるでしょう。


姫様の念だけでなく……


その者達の妬みや嫉みも、上乗せしてしまいましょう。」


女ははっと顔を上げた。


そして、ゆっくりと口元を歪める。


「……そうよ。


人の念が多いほど、呪詛の念は複雑になる。


呪詛の大元である私を見つけることも、困難になる……。」


女の目に狂気が宿る。


「近江。


都へ戻って、和泉に反感や嫉妬を抱いていそうな者がいないか調べてきてちょうだい。」


近江は深く頭を下げた。


「承知いたしました。」


そして静かに踵を返す。


蝉の声だけが響く本堂を、近江は音もなく去っていった。


その後ろ姿を見送った女は、ゆっくりと立ち上がる。


そして、小さく呟いた。


「……和泉。」


その名を舌の上で転がすように呼ぶ。


次の瞬間、女の口元が歪んだ。





──六条御息所邸


「和泉。御息所様がお呼びよ。」


「はあい。」


ぱたぱたと廊下を渡っていく紗世の後ろ姿を、面白くないとでも言いたげな目で見送る女房がいた。


六条御息所邸に仕えて五年になる女房、相模である。


(何よ、みんなして和泉、和泉って。ただ髪を変わった形に結えるってだけの子じゃない!)


相模は、紗世がこの邸にやって来る一年ほど前から、御息所の身の回りの世話を任されるようになった女房だった。

いわば御息所付きの側仕えである。


それは四年かけてようやく得た立場だった。


だが――


紗世が飾り髪を結うときだけは、その役目を和泉が担う。


(私だって四年もかけて、やっと御息所様の側仕えになれたのに……)


拳を握る。


(何で、ポッと出の和泉が私の居場所を取るのよ!!)


胸の奥で黒い感情が渦巻いた。


(……面白くないわ。)


手に持っていた虫干し中の衣を、思わず床へ叩きつけた。


「ちょっと、相模!そんな乱暴に袿や袴を扱わないでよ。」


同僚の女房が慌てて声を上げる。


相模はふん、と鼻で笑った。


「御息所様の袿や袴じゃないもの。丁寧に扱う必要なんてないわ。」


「ちょっと、どこ行くのよ!?」


相模は振り向きもせず言った。


「清水様へ寺詣でに行ってくるわ。そう報告しておいて!」


そう言い残し、部屋を出て行った。



──清水


清水寺には、貴族や他家の女房たちの参拝客がちらほら見える。


その中には――


飾り髪をしている姫君たちの姿も多かった。


「あら。その飾り髪、素敵ね。」


「そちらの髪飾りも花が揺れて豪華ですわね。」


「先日、和泉に教えてもらった最新の飾り髪よ。」


楽しげな声があちこちで響く。


飾り髪は、明らかに都の流行になっていた。


相模の眉間に皺が寄る。


(まったくもう……


どいつもこいつも和泉、和泉、和泉!!)


横を通り過ぎる姫君たちを、苦々しい思いで見つめる。


(田舎から都に出てきたばかりの、礼儀作法も立ち居振る舞いもなってない――


裳着を済ませたばかりの子供よ!?)


奥歯を噛み締める。


(そんな子をもてはやすなんて……


みんなどうかしてるんじゃないの!?)


その時だった。


思わず、本音が零れた。


「……和泉なんて……一度、痛い目に遭えばいいのよ……。」


ぽつりと呟く。


「世の中は……甘くないのよ。」


その瞬間。


相模の足元に、すっと影が落ちた。


はっと顔を上げる。


目の前に、一人の女が立っていた。


「こんにちは。」


女は穏やかな笑みを浮かべている。


「心に澱が沈んでいるようですね。」


相模は慌てて立ち上がった。


「あ……いいえ。何でもございませんわ。失礼します。」


立ち去ろうとしたその背に、女の声が追いかけてくる。


「妬み嫉みの感情は醜いと――」


静かな声だった。


「誰が決めつけたのでしょうか。」


相模の足が止まった。


女はゆっくりと言葉を続ける。


「誰かを妬み、嫉み、憎む……


それは、生きているからこそ抱く、人の自然な感情ではありませんか?」


相模は振り返る。


女は扇で顔の半分を隠していた。


だが――


扇の奥の目が、まるで心の奥を覗き込むようにこちらを見ている。


「私は……」


女は微かに笑った。


「妬み嫉み憎悪を抱いた人間よりも、抱かせた人間の方が、罪が重いと思うのです。」


相模の喉がごくりと鳴る。


「妬み嫉みを……抱かせた人間……?」


女は静かに頷いた。


そして言った。


「……少し、ゆっくりお話しませんか。」


扇の奥で、女の口元がわずかに歪む。


その女――近江は。


相模の心の闇を、静かに掬い上げようとしていた。


(都中の嫉妬を……和泉、お前一人に集めてあげる。)



相模はまだ気付いていなかった。


自分の心の闇が、誰かの呪詛の種にされようとしていることを。


「お話……?」


「ええ。あなたの心の内を、私にお聞かせください。何も知らぬ相手の方が、打ち明けやすいこともございましょう?」


蝉の声が、いっそう激しく鳴いた。


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