第64話 惟成の縁談
──参議邸
参議邸の前に牛車が停まった。
降り立ったのは、青みを帯びた直衣に白袴を着けた若い貴公子――惟成であった。
だがその姿は、普段の武官装束よりどこか落ち着かないようにも見える。
(やはり武官装束の方が動きやすい。)
惟成は袖を少し持ち上げてみた。
長い。
歩けば裾が揺れる。
(走れと言われたら三歩で転ぶな。)
内心で断言した。
それでも目の前の立派な屋敷を見上げると、自然と背筋が伸びる。
参議邸である。
(公卿家か……。
失礼のないようにせねば。)
武官としての緊張感とはまた違う、妙な緊張が胸に広がる。
そう思いながら、惟成は門をくぐった。
⸻
やがて、二の姫の部屋へと案内される。
御簾の向こうから、ふわりと爽やかな香が漂ってきた。
そして、若々しい高い声が響く。
「惟成様。まずは先日のお礼を申し上げとうございます。」
「……先日?」
惟成は首を傾げた。
「民部卿の姫君の春の集まりの折にございます。当家の女房の不手際をきっかけに、お席が乱れてしまいましたでしょう。」
(ああ。)
惟成の脳裏に、あの日の騒ぎが蘇る。
(竹の髪飾り……いや、紗世は“割り箸”と言っていたが。)
あの破片が飛び、場が騒然となった。
(あれを飛ばしたのは、この邸の女房だったのか。)
「そんな中、惟成様が場を落ち着かせようとしてくださったではございませんか。」
「いえ。」
惟成は落ち着いた声で答えた。
「私は六条御息所様の護衛としてお供しておりましたので。」
(実際は紗世の護衛のようなものだが。)
「当然の務めにございます。二の姫君が気になさることではございません。」
御簾の向こうで衣擦れの音がした。
「し、しかし……」
姫の声が少し震える。
「わたくし……あの時の惟成様を見て……その……」
扇で顔を隠す気配。
「とても素敵な殿方だと……思いましたの!!!!」
「……あ……」
惟成は一瞬固まった。
「ありがとう、ございます。」
沈黙。
とても静かな沈黙だった。
(……会話が続かん。)
惟成の額に、うっすら汗がにじむ。
(どうしたら良いのだ、これは。)
普段、年頃の姫君と話す機会などほとんど無い。
(紗世と話す時は――)
思い浮かんだ顔に、惟成はさらに困惑する。
(紗世は、なぜか毎回ツッコミ待ちとしか思えぬ話題を振ってくるから、自然と会話が続くのだが……。)
チラリと御簾を見る。
当然、向こうの様子は分からない。
(表情も雰囲気も読めん!!)
絶望した。
その時だった。
「二の姫君様は、箏がとてもお上手なのですよ。」
助け舟が来た。
姫の女房・播磨である。
「実は、惟成様にお聞かせしとうて、近頃とくに熱心に練習なさっていたのです。」
(いいぞ、女房殿。)
惟成は心の中で拳を握った。
(竹の破片を飛ばした失態は帳消しだ!)
「それはそれは……」
惟成は顔を整えた。
源氏の君が姫君達に振りまいている、あの柔らかな笑みを思い出す。
そして――
意識して微笑んだ。
「ぜひ聞かせていただきたいものですね。」
御簾の向こうで、二の姫君の心臓が跳ね上がった。
(こっ……惟成様の……笑顔……!)
いつも真面目で凛とした顔の印象が強い。
それだけに破壊力がすさまじい。
(なんて素敵なお顔……!
もっと……もっと笑ってくださらないかしら……!)
「は、播磨!」
姫は慌てて言った。
「箏を持ってきてちょうだい!」
「かしこまりました。」
播磨はくすりと笑いながら立ち上がった。
その表情には、
(これはうまくいきそうですね。)
という女房らしい余裕がにじんでいた。
一方――
惟成は小さく息を吐いた。
(……助かった。)
だが、まだ気づいていない。
御簾の向こうで、一人の姫の恋心が今まさに燃え上がっていることを。
播磨が箏を運んでくると、部屋の空気が少しだけ改まった。
御簾の向こうで、二の姫君が静かに座り直す気配がする。
「それでは……少しだけ。」
弦が、すうっと鳴った。
柔らかく、澄んだ音色が部屋に広がる。
ぽろん……
とん……
とろろろ……。
静かな調べが、香の匂いと混じりながら流れていく。
惟成は黙って聞いていた。
真顔で。
とても真顔で。
武官としての集中力で。
(……。
…………。
……………うむ。)
曲が終わった。
最後の音が、ふっと消える。
御簾の向こうで、二の姫君が小さく息を吐いた。
「……いかがでございましたか?」
声は、少し緊張していた。
惟成は――
困った。
(……どうしよう。
音楽の感想が、分からん。)
武芸なら分かる。
刀なら分かる。
馬なら分かる。
弓も分かる。
しかし――
(箏は分からん。)
惟成は必死に考えた。
(源氏の君なら、ここで何と言うのだ。)
「春の風のようだ」とか。
「月の光が揺れるようだ」とか。
そういう、何かこう――
雅なことを言うのだろう。
(……春の風。
いや、今日は春でも風でもない。
それに、風の音を聞いたことがない。)
思考が迷走した。
沈黙が長くなる。
御簾の向こうで、二の姫君の鼓動が早くなる。
(も、もしや……下手だったのかしら……。)
その時だった。
惟成が口を開いた。
「……弦の張りが、とても良いと思いました。」
沈黙。
播磨がゆっくり瞬きをした。
(そっち!?)
御簾の向こうで、二の姫君も固まった。
惟成は真面目に続ける。
「均等に張られており、音がぶれませんでした。」
播磨は思った。
(完全に武官の評価だ。)
惟成はさらに考えながら言う。
「あと……」
(何か言わねば。)
「……丈夫そうです。」
播磨は思った。
(箏の耐久性を褒める人、初めて見ました。)
御簾の向こうで、二の姫君は一瞬ぽかんとした。
そして――
くすっ。
思わず笑ってしまった。
「惟成様は……」
姫は扇の向こうで笑いながら言う。
「とても、正直なお方なのですね。」
惟成は首を傾げた。
(今のは、失言だったのだろうか。)
播磨は静かに頷いた。
(これは……
姫君、完全に惚れましたね。)
一方その頃――
惟成の脳裏には、なぜか別の顔が浮かんでいた。
紗世である。
(紗世なら、今の演奏を聞いて……
『ねえ惟成、それ絶対弦一本ズレてるよ』
とか。
『この音、絶対ミスってるよね?』
とか。
平然と言いそうだ……。)
惟成はふと思った。
(あれは、あれで楽だったのかもしれん。)
御簾の向こうで、二の姫君はまだくすくすと笑っていた。
「弦の張り……でございますか。」
「はい。」
惟成は真面目に頷く。
「均等に張られているので、演奏者の腕前がよく分かります。」
播磨は静かに思った。
(この御方、恋愛に関しては壊滅的に鈍い。)
しかし女房として、ここで会話を終わらせるわけにはいかない。
播磨はすっと口を開いた。
「惟成様は、普段はどのようなお務めをなさっておいでなのですか?」
「兵衛志として、宮中の警備を。」
「まあ、なんと頼もしい。」
播磨は感心したように頷く。
「では、刀や弓なども大変お強いのでしょうね。」
「普通です。」
惟成はさらりと言った。
播磨は内心で思った。
(普通ではありません。)
宮中でも噂になっている。
兵衛志の中でも腕が抜きん出ている、と。
だが惟成本人は全く自覚がない。
播磨はにこやかに続ける。
「では、武芸の鍛錬などでお忙しいのですね。」
「はい。朝は刀、昼は弓、夜は宮中の警備が主です。」
御簾の向こうで、二の姫君の目がきらきらと輝く。
(なんて勤勉なお方……!)
播磨は心の中で頷いた。
(よし、姫君の好感度は上がっている。)
ここで播磨は、さらに踏み込む。
「惟成様ほどのお方ですと、さぞや多くの姫君方からお慕いされているのでは?」
惟成は一瞬考えた。
「……いえ。」
即答だった。
播磨は少し目を丸くする。
「本当に?」
「はい。」
惟成は真顔で答える。
「そのような話をされたことはありません。」
御簾の向こうで、二の姫君の胸が高鳴る。
(よかった……。
まだ……どなたも……。)
播磨はさらに聞いた。
「では、惟成様には想いを寄せておられる姫君などは……」
「いません。」
即答だった。
しかも早い。
播磨は思った。
(早すぎる。)
惟成は真面目に続けた。
「そのような余裕はありませんので。」
「まあ。」
播磨は扇で口元を隠す。
「では、もし仮に――」
ここで播磨は、さりげなく爆弾を投げた。
「惟成様が想いを寄せる姫君が現れたら、どのようなお方でしょう?」
御簾の向こうで、二の姫君が息を止める。
惟成は考えた。
少しだけ。
そして答えた。
「……話しやすい方でしょうか。」
「話しやすい?」
播磨はすかさず食いつく。
「ええ。」
惟成は少し困ったように言う。
「私は姫君方との会話が得意ではないので。」
(それは見れば分かります。)
播磨は内心で頷いた。
惟成はさらに言う。
「ですが、たまに――」
言葉を選びながら続ける。
「妙に話しやすい者がいます。」
御簾の向こうで、二の姫君の心臓が止まりそうになる。
(だ……誰……?)
播磨の目が光った。
「まあ。それはどのようなお方ですの?」
惟成は少し考えた。
「……よく喋ります。」
「はい。」
「よく怒ります。」
「はい?」
「よく人を叩きます。」
御簾の向こうで、二の姫君が固まった。
播磨も固まった。
惟成は真面目に続ける。
「ですが、なぜか会話は楽です。」
沈黙。
播磨は思った。
(姫君タイプではない。)
そして直感した。
(これは絶対、別の女です。)
御簾の向こうで、二の姫君が不安になり始めた。
(ど、どんな方なの……)
その時、惟成は首を傾げた。
「……ですが。」
「はい?」
播磨が慎重に聞く。
「姫君ではありません。」
「え?」
「女房です。」
御簾の向こうで、二の姫君の心が一瞬凍った。
播磨は思った。
(なるほど。
それが――恋仇ですね。)
だが惟成はまだ気づいていない。
自分がその女房を思い浮かべながら話していたことに。




