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第63話 まだ名もなき想い

───左兵衛尉邸


乾いた弦音が、庭の空気を鋭く切り裂いた。


惟成は弓を引き絞ったまま、的を見据えている。


その背後から、父・惟光の声がかかった。


「源氏の君が、北山の若紫様を引き取ると正式に決まったようだ。」


惟成は弦を緩め、弓を静かに下ろした。


「以前お話しされていた……十歳ほどの童女ですか。」


「ああ。」


惟光は腕を組む。


「祖母君が亡くなられた後に迎えるとのことだ。実際に引き取るのは、秋か、遅くとも冬になるだろう。」


惟成は軽くうなずいた。


「北の方様には?」


「和泉殿に言われた通り、源氏の君は北の方様にも相談されたらしい。北の方様も公認の引き取りだ。」


惟光は、やや呆れたように肩をすくめた。


「和泉殿が見事なのか、源氏の君が見事なのか……それとも北の方様の懐が深いのか。」


惟成は何も言わず、父の言葉を聞いていた。


惟光はふと視線を遠くへ向ける。


「……だがな」


声がわずかに低くなる。


「北山の若紫様が成長された時、どうなるかだ。」


惟成は父を見る。


「源氏の君の“病”が出なければよいのだがな。」


惟光は小さく苦笑した。


「今は保護と言っておられるが……人の心は変わるものだ。」


しばしの沈黙。


やがて惟光は、思い出したように顔を上げた。


「惟成。」


「はい。」


「少し話がある。」


「何でしょう。」


惟成は弦を外しながら、淡々と応じた。


「縁談の話だ。」


惟成の手が、わずかに止まる。


「……私に、ですか?」


「すぐにどうこうという話ではない。だが、参議様の二の姫君がな、お前に心を寄せておられるらしい。参議様より、一度席を設けられぬかと打診があった。」


「参議様の……二の姫君。」


惟成は記憶をたぐる。


ほどなく思い至った。


「ああ。何度も文をくださる姫君ですね。失礼のないよう、返書は差し上げておりますが。」


惟光は、やや困ったように眉を寄せる。


「その返書だ。姫君は“お会いしたい”と書いておられるのに、お前は“ご厚情痛み入ります”などと、肝心のことには触れておらぬと。」


(……わざと避けていたのだが。)


惟成は胸中で小さく息をついた。


「姫君が父君に泣きつかれたらしい。どうしても一度だけ、と。」


惟成は弓を壁に立てかける。


「しかし、私はまだ十二です。縁談と申されましても。」


「承知している。だが姫君は十五。そろそろ相手を定める年頃だ。参議様の御意向もある。……一度、顔を合わせるだけでよい。」


しばし沈黙。


参議家の名を思えば、無下に断るわけにもいかない。


「……相手が参議様の姫君では、辞退は難しいでしょう。」


「分かってくれるか。」


惟光は安堵の息を漏らした。


「ただし、本当に“会うだけ”です。」


「無論だ。」


惟成はうなずいたが、その目はどこか冷静だった。


縁談というより、家と家の儀礼。


そう割り切ることで、胸の内のざわめきを押さえ込む。




───参議邸


「惟成様が……? 本当に、会ってくださるのですか?」


二の姫君の顔が、ぱっと花のように明るんだ。


「先ほど左兵衛尉殿より返事があった。日を改めて席を設けようとのことだ。」


父である参議は、穏やかに告げる。


姫は両手を胸の前で握りしめた。


「では……お会いできるのですね。」


「よかったですね、姫君。」


側に控える女房・播磨が、ほっとしたように微笑む。


「姫君、あれほど一心にお文をお書きになっておられましたもの。」


姫は頬を染め、うつむいた。


「やっと……やっと、またお目にかかれるのですね。惟成様に。」


その声は、隠しきれぬ喜びに満ちていた。


あの春の集まり。


民部卿邸での宴は、本来は穏やかな花の席であったはずだった。


だが、播磨が不用意に飛ばした竹の破片をきっかけに、場は騒然となった。


怒号、非難、入り乱れる視線。


主人である姫は、ただ顔面蒼白のまま立ち尽くすしかなかった。


その混乱の中へ、静かに進み出た少年がいた。


まだ若いながらも凛と背を伸ばし、事を鎮めようとした姿。


あの横顔を、姫は忘れられなかった。


あの時から。


姫の胸に宿った思いは、憧れから恋へと、静かに姿を変えていた。


「当日は、どの衣を選びましょう。ねえ、播磨。」


「姫君には、淡い藤色がよろしゅうございましょう。春の折にお召しになった色より、少し大人びて。」


姫は嬉しそうにうなずく。


まだ知らぬ。


その想いが、やがて自らの胸を試すことになるとは。


ただ今は、再び会えるその日を、指折り数えるばかりであった。




──宮中


「やあ、惟成じゃないか。」


声に呼ばれ、惟成が振り向く。


そこには、頭中将が立っていた。


「頭中将様。お久しぶりにございます。」


惟成は軽く頭を下げる。


頭中将は惟成の顔を見るなり、にやりと笑った。


「聞いたぞ。もう縁談話が出ているそうじゃないか。」


「……縁談というほどのものではございません。ただ一度、お会いするだけです。」


「参議様の二の姫君だろう?」


頭中将は腕を組む。


「悪くない縁組ではないか。相手は公卿家。惟成の家は武官の名門。うまくいけば、お前の出世はさらに早まるぞ。」


惟成は静かに首を振った。


「そうかもしれませんが……私はまだ十二です。未熟の身で出世を考えるなど、恐れ多いことです。」


頭中将は思わず笑った。惟成の肩をぽんぽんと叩く。


「本当に真面目だな、君は。」


少し懐かしむような顔になる。


「私や源氏の君が君くらいの頃は、評判の姫君の話ばかりしていたものだ。」


そして肩をすくめる。


「……まあ、今もだが。」


惟成は黙ってその話を聞いていた。


頭中将はふと表情を変える。


「……会うのが嫌なのか?」


少しだけ真面目な声だった。


惟成は一瞬視線を落とす。


「……正直、気は進みません。」


「ほう。」


頭中将の口元がわずかに緩む。


「もしや、他に想い人でもいるのか?」


「違います!」


惟成は即座に答えた。


その反応の早さに、頭中将は内心で苦笑する。


(即答するところが、かえって怪しいな。


参議の二の姫君には気の毒だが……失恋かもしれぬ。


この手の性格の者は、一度想えばとことん一途だからな。)


頭中将は、弟を見るような目で惟成を見た。


「……何か?」


惟成が怪訝そうに尋ねる。


「いやいや。」


頭中将は軽く手を振った。


「惟成はまだまだ仕事を覚えねばならぬ身だ。縁談だの恋だの、考える余裕はないのだろうと思ってな。」


「はい。先輩方に早く追いつかねばと思っております。」


「そうかそうか。」


頭中将は満足そうにうなずいた。


「では励むがよい。仕事も――二の姫君との顔合わせもな。」


そう言い残し、頭中将は軽い足取りで去っていった。


惟成はその背をしばらく見送っていた。


やがて、小さく息をつく。


「……想い人など、今は、まだ……」


そう呟きかけて――


ふと、脳裏に浮かんだのは、

六条御息所邸で、呆れた顔をしてこちらを見ていた少女の姿だった。


「……なぜ、あの者が。」


惟成は眉を寄せる。


理由は、思い当たらない。


惟成は小さく首を振った。


「……いや」


そんなはずはない。


そう思いながらも、その顔は、しばらく頭から離れなかった。


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