第347話 権大納言の不穏な策
───権大納言邸
「権大納言様。藤原式家の姫の謁見は、いかがでしたか?」
中納言が、笑みを浮かべながら尋ねた。
権大納言は脇息に身を預けたまま、手にした扇をゆっくりと動かしていた。
その口元には、満足げな笑みが浮かんでいる。
「そなたが笑っておるということは、大体のことは聞いているのであろう?」
権大納言がちらりと視線を向けると、中納言は愉快そうに笑った。
「ははは。まあ。お主上は、かなり姫に色々とお尋ねになり、興味を示されたとか。」
「儂が口を挟まずとも、お主上と姫の会話は弾んだ。」
権大納言は、扇を閉じた。
「お主上は、かなり姫に興味を示されたようだ。次の参内の段取りを組め。」
「は。承知いたしました。」
中納言は深々と頭を下げると、静かに下がっていった。
その足音が遠ざかり、部屋に静けさが戻る。
権大納言は、しばらく庭を眺めていた。
庭の木々は風に揺れ、葉の擦れる音がかすかに聞こえている。
やがて、権大納言は小さく呟いた。
「あとは、お主上にどう入内の話を持ちかけるか、だな。」
先ほどまで浮かんでいた笑みが、少しずつ消えていく。
「姫はまだ十六。お主上のお心を掴むには、十分な時間がある。」
そう言いながらも、権大納言の表情は晴れなかった。
「……そして、問題は源惟成。」
権大納言は、脇息を指先でトントンと叩いた。
「鬼退治を三日で終わらせるとは……完全に想定外だったな。」
指先の動きが、次第に速くなる。
「本来なら、しばらく山城へ足止め出来るはずだった。」
権大納言は、苦々しげに目を細めた。
「その間に姫を参内させ、お主上のお心を掴ませる。そうして、入内の話を進めるつもりであったのに……。」
扇が、ぱちりと音を立てて閉じられた。
「まさか、あれほど早く戻ってくるとは。」
権大納言は、深く息を吐いた。
「もし今、源惟成との間に子でも出来ようものなら、全ての計画が水の泡だ。」
その言葉を口にした瞬間、権大納言の目に冷たい光が宿った。
しばらく黙り込んだ後、ゆっくりと顔を上げる。
「……いや。」
権大納言は、独り言のように呟いた。
「入内でなくとも、お主上のお手が付けばよい。」
その声には、先ほどまでの焦りがなかった。
代わりに、ひとつの策を思いついた者の落ち着きがあった。
「たとえ源惟成の子であったとしても……お主上の御子だと言い張ればよい。」
権大納言は、扇を開いた。
「姫が誰の子を宿しているかなど、確かめようもないのだからな。」
その言葉を、まるで当然のことのように口にする。
「お主上のお手が付いた姫であれば、入内の話は後からでも整えられる。」
権大納言は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋の隅に置かれた小さな抽斗へと歩み寄る。
抽斗の前で足を止めると、権大納言は一度だけ周囲を見渡した。
人の気配はない。
廊下にも、庭にも、誰かが近づいてくる様子はなかった。
権大納言は静かに手を伸ばし、抽斗を引き開けた。
中には、紙に包まれた小さな包みが置かれていた。
権大納言は、それを取り出す。
手に取った包みを、しばらく無言で見つめた。
その手つきには、初めて触れる者の戸惑いはない。
まるで、以前からそこにあることを知っていたかのようだった。
「入内は、どうしても時間がかかり過ぎる……。」
権大納言は、包みを指先で撫でた。
「そうしている間に、源との三夜通いが成立してしまう。」
ギリ、と奥歯を噛み締める。
「ならば、順序などどうでもよい。」
権大納言は、包みを見下ろした。
「お主上のお手が付いたから入内……そんな流れでも良しとしようか。」
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「姫の意思など、後からどうとでもなる。」
その声には、紗世を一人の少女として案じる気配など、欠片もなかった。
権大納言にとって、紗世は式家再興のために必要な存在。
そして、そのためならば、紗世が誰を想い、誰の子を宿し、何を望むのかなど、問題ではなかった。
権大納言は、紙包みを再び抽斗の中へ戻した。
そして、何事もなかったかのように抽斗を閉じる。
「……そうだ。」
権大納言は、静かに呟いた。
「お主上のお心さえ、こちらへ向けることが出来ればよい。」
閉じられた抽斗の中で、紙包みがかすかに揺れた。
部屋には、権大納言の低い笑い声だけが残った。
───翌日・宮中
権大納言は蔵人頭へ、帝への謁見を願い出た。
しばらくすると、蔵人頭が謁見の許しが出たことを伝えに来た。
「権大納言よ。今日はどうしたのだ?」
御簾の内から、穏やかな声が落ちる。
「は。先日お会いになった藤原兼成の娘についてでございます。」
「おお。あれはなかなかに興味深く、楽しかったな。藤原の姫がどうかしたのか?」
権大納言は頭を上げた。
「急ではあるのですが、三日後の観月の宴。姫をお呼びになるのはいかがでしょうか。」
帝の目が見開かれる。
「ほう! それは良い!」
ぱちん、と扇を鳴らした。
権大納言は続けた。
「うどんは縁起の良い食べ物とも言いますし、宴の料理で出しても良いでしょう。それに……先日も言っていたではないですか。」
「む? 何をだ?」
「あの姫は、うどんの他にもいくつか料理を作ったことがある、と。それを食してみたいとは思いませぬか?」
帝から笑みが零れた。
「なるほど! それはいい案だな! 命婦を呼べ。」
帝は命婦を呼ぶと、三日後の観月の宴に紗世も参加させたい旨を伝えた。
「お主上の御意、承知いたしました。藤原兼成の娘にお伝えいたしましょう。」
そう言って、命婦は静かに退出した。
「実は先程、源氏の君から、あの姫の料理について聞いてな。私も是が非でも食してみたいと思っておったのだ。」
帝が楽しそうに笑った。
「左様でございましたか。ちょうどよろしゅうございました。」
権大納言も笑みを浮かべる。
「そうか、そうか。観月の宴があったな。姫を呼ぶのに、ちょうど良い。」
純粋に宴を楽しみにする帝を、権大納言は目を細めて見つめた。
その口元は、不穏に歪んでいた。




