第346話 紗世を想う者
「これは和泉殿から聞いた話ですが、和泉殿の方から惟成殿に、名前で呼んで欲しいと言ったそうですよ。」
陰陽頭は、穏やかに言った。
「姫の方から……。」
中務卿宮は、ぽつりと呟いた。
「思えば、和泉殿は出会った当初から、惟成に助けられた事が多いな。」
源氏の君が、小さく笑った。
「いや、一番最初に和泉殿を助けた時のことは……惟成もかなり驚いたと言っておりましたな。」
つられて、惟光も笑う。
「最初……とは?」
中務卿宮と陰陽頭が、声を揃えて尋ねた。
源氏の君は、笑いを堪えながら話し始めた。
「ある日、和泉殿は民部卿の姫君の手の者に攫われかけたのです。まあ、それを阻止して助けたのが惟成だったのですが……。」
源氏の君は、そこで笑いが込み上げ、続きが話せなくなった。
代わりに、惟光が口を開く。
「和泉殿は牛車に押し込められ、攫われかけました。息子は押し込められた場面を見たわけではなかったのですが、偶然通りかかった際、その牛車に不自然さを覚え、追いかけたのです。
夜中のことで、牛車が石に乗り上げたのか、大きく傾いた時でした。和泉殿が牛車から飛び降り、転がり出てきたそうです。」
「ぶふっ……!」
陰陽頭が、思わず吹き出した。
「牛車から……飛び降りたのか?」
中務卿宮も、思わず聞き返す。
「ええ。」
惟光は頷いた。
「あの日、惟成が夜帰ってきて、珍しく仕事以外の話をしてきました。」
「何と言ってきたのだ?」
源氏の君が、にやにやしながら尋ねた。
「はい……。」
惟光は、当時の息子の真面目な顔を思い出したのか、また笑いを堪えた。
「『父上、和泉殿が見知らぬ男達に攫われかけたのですが……気を失うどころか、隙を突いて牛車から飛び降りたのです。和泉殿は女人ですよね?』と、真面目な顔で聞いてきたのです。」
「ははははは!」
源氏の君が、とうとう声を上げて笑った。
中務卿宮も、思わず笑みをこぼす。
陰陽頭は袖で口元を隠し、声を殺して笑っていた。
「よほど、牛車から飛び降りたことが印象的だったのでしょう。」
惟光は、くっくと笑いながら話を続けた。
「息子は拉致未遂の件もあり、しばらく和泉殿の護衛に当たった時期がございました。その頃には、こんなことも言っておりました。」
「何だ?」
源氏の君が聞く。
「『和泉殿は走るし、跳ぶし、護衛が大変です』と。」
「……なるほど。」
陰陽頭が、笑いを堪えながら頷いた。
「惟成殿らしいと言えば、実に惟成殿らしいですな。」
「惟成は、和泉殿を放っておけなかったのだろうな。」
源氏の君も笑いながら言った。
「……そうだな。」
中務卿宮は、静かに頷いた。
「私も、あの姫からは何故か目が離せなかった。」
その言葉に、源氏の君と陰陽頭は、僅かに目を合わせた。
中務卿宮は気付かず、話を続ける。
「それから、息子は無愛想でしょう? 会話も必要なことしか話しません。」
「そうですね。」
「そうだな。」
源氏の君と陰陽頭が頷く。
惟光も、苦笑しながら続けた。
「普通の姫君なら、会話に困るでしょう。しかし、和泉殿は全くそんな事はなく、息子と話しておりました。息子があれほど話すのは、なかなかありません。」
惟光は、少し眉を下げた。
「和泉殿が相手だからこそ、息子も自然に言葉が出てきたのでしょうな。」
中務卿宮は、黙って聞いていた。
惟光は、ふぅ、と息を吐く。
「牛車拉致事件、六条邸での呪詛事件、紅葉狩りでの呪詛事件、山小屋監禁事件……。」
惟光は、指折り数えるように、これまでの出来事を思い返した。
「今思えば、あの二人は様々な出来事を乗り越えてきました。互いに惹かれ合うのも、自然なことなのでしょう。」
「そんなに……様々な事があったのだな……。」
中務卿宮は、目を伏せた。
自分が知らない間に、紗世は幾度も危険な目に遭っていた。
そして、そのたびに傍にいたのは惟成だった。
「正直……。」
中務卿宮は、しばらく考えてから口を開いた。
「源惟成は、馬鹿正直な若者と思っていてな。」
源氏の君と陰陽頭が、静かに中務卿宮を見る。
「武官で、真面目であるが故に、自分と身分も年齢も同じくらいの女と結婚し、子をもうけ……そうして人生設計を立て、その通りに進んでいるだけかと思っていたのだ。」
「いや……もし、和泉殿と出会っていなければ、そうなっていたかもしれません。」
源氏の君は、少し笑いながら言った。
「確かに。我が息子ながら、融通の利かない、くそ真面目な性格ですからね。」
惟光も肩を竦める。
「親が決めた相手であれば、女の元へ通うことすら『任務』と考えそうです。」
「そんな自分を変えた姫となれば……。」
中務卿宮は、ゆっくりと顔を上げた。
「確かに、身分が上の者だろうが何だろうが、譲る気にはなれないだろうな……。」
その声には、先ほどまでの苛立ちとは違うものがあった。
惟成という男を、少しずつ理解し始めている。
中務卿宮は天井を仰いだ。
そして、ふっと息を吐く。
「……なるほどな。」
しばらくして、中務卿宮は再び三人へ向き直った。
「しかしだ!」
三人が、僅かに身構える。
中務卿宮は、にやりと笑った。
「私も、失恋するならば、精一杯足掻いた末に諦める方が良い。」
源氏の君と陰陽頭は、思わず顔を見合わせた。
「惟成にも、そう伝えておけ。」
中務卿宮は、そう言って笑った。
その表情には、もはや惟成を一方的に敵視する色はなかった。
恋敵として認めた上で、自分もまた、紗世
のために最後まで足掻く。
そんな決意が、静かに宿っていた。




