第345話 回顧
「私がさらに傷付く……と?」
中務卿宮が、ゆっくりと目線を上げた。
その声は静かだった。
だが、静かであるからこそ、陰陽頭には逃げ場がないことが分かった。
「え? あ? や、あの!」
陰陽頭の目が泳ぐ。
何か別の話題を探すように、視線があちらこちらへと動いた。
「そ、そういえば宮様! 先日……。」
源氏の君が、慌てて話を逸らそうとする。
しかし、
「話を逸らすでない!」
中務卿宮が、すぐさま先手を打った。
「……はい。」
源氏の君は、口を閉じた。
中務卿宮は、二人を順に見た。
「話せ。」
短い言葉だった。
けれど、その声には有無を言わせぬ圧があった。
源氏の君と陰陽頭は、互いに目を見合わせた。
ここで誤魔化しても、もう逃げられない。
二人とも、それを悟った。
やがて、源氏の君が小さく息を吐く。
「……分かりました。」
そして、静かに口を開いた。
「三条……和泉殿には、恋仲の武官がおりまして……。」
「兵衛尉の源惟成のことか?」
その名前が、先に中務卿宮の口から出た。
源氏の君と陰陽頭は、思わず顔を見合わせた。
「ご存知だったのですか!?」
「三条……藤原兼成の姫に再会した時、本人から聞いた。」
中務卿宮は、淡々と答えた。
「既にその者と将来を誓っており、本来なら三夜通いもして、夫婦になるつもりであったと。」
「…………。」
源氏の君は、返す言葉を失った。
陰陽頭も、黙って中務卿宮を見つめている。
中務卿宮は、ふと自嘲するように笑った。
「そこまでの相手がいるというのに……諦めの悪い男と思うか?」
「……いえ……。」
源氏の君は、静かに首を横に振った。
「兵衛尉と姫は、いつからの付き合いだ?」
「私と同じ頃でしょう。」
源氏の君は、記憶を辿るように目を伏せた。
「私が常陸宮の姫君の事で、惟成を使いに出したのが最初でしょうから。」
「お前が源に使いを?」
中務卿宮の眉が、僅かに動いた。
「なぜ?」
「まだ六条御息所様に仕え始めたばかりで、幼さの残る女房でしたから……。」
源氏の君は、当時の紗世を思い出すように続けた。
「歳の近い者の方がよいだろうと思いまして。そこで、同年ということで、私の随身である惟光の息子、惟成に使いに出てもらったのです。」
「何だと!?」
中務卿宮が、目を見開いた。
「源氏の君の随身ということは、今もそこに控えておるのか?」
そう言って、廊下の方へ視線を向ける。
「ええ。まあ。」
源氏の君は、少し歯切れ悪く答えた。
中務卿宮は、しばらく黙っていた。
やがて、
「……惟光とやらを呼んでくれ。」
と、静かに言った。
源氏の君は、一瞬だけ躊躇った。
惟光を呼べば、さらに多くのことを聞かれるだろう。
しかし、ここで断ることも出来ない。
「聞いたか、惟光。こちらへ。」
廊下へ向けて声を掛ける。
「は。」
すぐに返事があった。
惟光がゆっくりと膝を進め、簾をくぐる。
そして、主である源氏の君と中務卿宮へ、深々と頭を下げた。
「源氏の君にお仕えしております。源惟光にございます。」
「そなたの息子は、いつ頃から姫と恋仲だったのだ?」
中務卿宮は、挨拶を終えるのを待つと、すぐに尋ねた。
惟光は、少し考えた。
「結論から申しますと、いつ頃からという明確な時期は分かりません。」
惟光は、慎重に言葉を選んだ。
「息子は不規則な出仕が多々ございまして、邸で互いにゆっくり話す機会も少なかったので……。」
「では、分からぬのか?」
「はい。ただ……。」
惟光は、そこで一度言葉を止めた。
中務卿宮の目が、惟光へ向けられる。
「ただ?」
「恋仲という程ではなかったでしょうが、息子が姫を意識し始めたのは、かなり早い時期かと、父親ながらに思います。」
「父親ながら、とは。どういう意味だ?」
中務卿宮の声が、僅かに低くなった。
惟光は、少しだけ苦笑した。
「恐らく息子は、姫に好意を持っているという事に、気付いていなかった時期があったのだと思います。」
「……気付いていなかった?」
「はい。姫を気に掛けてはいる。姫の身を案じてもいる。けれど、それが恋情であるとは、自分では分かっていなかったのやもしれません。」
惟光の言葉に、中務卿宮は黙り込んだ。
自分にも、覚えがあった。
三条に惹かれたあの頃。
彼女の声を聞きたいと思い、姿を見たいと思い、少しでも長く傍にいたいと思った。
それが恋だと気付くまでに、どれほどの時間が掛かっただろう。
「ああ……。」
中務卿宮は、僅かに目を伏せた。
「何となく分かるな。」
陰陽頭が、懐かしげにくすりと笑った。
「私が和泉殿と惟成殿に初めて会った頃は、まさにそんな時期だったと思います。」
「そういえば、陰陽頭は六条御息所様の邸に行ったきっかけは、和泉殿の呪詛事件であったな。」
源氏の君が言った。
「確か、惟成が陰陽頭を呼びに行ったのだったか?」
「ええ。」
陰陽頭は頷いた。
「あの日の事は、よく覚えております。とても印象的な事件でしたから。」
「姫が!?」
中務卿宮が、身を乗り出した。
「呪詛をかけられたのか!?」
「ええ。」
陰陽頭は、少し困ったように頷いた。
「あの事件は、呪詛をかけたのが民部卿の姫君でしたから、大事になる前に民部卿が必死に揉み消しておりましたな。」
「どんな事件だった?」
中務卿宮の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
陰陽頭は、当時のことを思い出すように、ゆっくりと語り始める。
「当時、和泉殿は飾り髪の流行を生み出し、あちこちの邸に呼ばれておりました。
民部卿の姫君は、和泉殿の人気を妬んだのです。その上、都の姫君達から人気の高い源氏の君や頭中将様まで、和泉殿と懇意にしておりましたから。」
陰陽頭は、苦々しげに眉を寄せた。
「嫉妬は、さらに強くなったようでした。」
「それで?」
中務卿宮は、先を促した。
「民部卿の姫君は、気性の荒い性格であることは有名でしたが……とうとう呪詛に手を出しました。」
陰陽頭は、声を落とした。
「形代を使い、遠隔で和泉殿を苦しめたのです。」
「なんと……!」
中務卿宮の顔が、苦々しく歪んだ。
「そのような目に遭ったのか。」
その呟きには、怒りと悔しさが滲んでいた。
今まで、何も知らなかった。
「実は葵も、和泉殿が呪詛に倒れる前に、民部卿の姫君に呪詛をかけられたのです。」
源氏の君が言った。
「民部卿の姫君とやらは、手当たり次第だな……。」
中務卿宮は、呆れと怒りの入り混じった声を漏らした。
「それで? どうなったのだ?」
陰陽頭が答える。
「源氏の君の北の方様への呪詛が解決し、和泉殿が六条邸に戻った直後だったそうです。和泉殿が呪詛に苦しめられ、倒れたのは。」
陰陽頭の目に、懐かしさとともに、呪詛への苦々しい思いが滲んだ。
「夜中、惟成殿が必死な顔で陰陽寮へとやって来たのです。呪詛で人が倒れた。早く来てくれ、と。」
中務卿宮は、黙って聞いていた。
「惟成殿にまとわりついていた呪詛の気配が、ただ事ではないと感じました。ですから、私が自ら六条邸へと向かったのです。」
中務卿宮の表情から、先ほどまでの余裕が消えていく。
「六条邸は、大変な騒ぎでした。」
陰陽頭は、あの日の光景を思い出すように、ゆっくりと目を伏せた。
「呪詛に苦しむ和泉殿が暴れ、それを御息所様が必死に抑え、惟成殿も姫の名を何度も呼び、正気に戻そうとしておりました。」
「…………。」
中務卿宮は、しばらく何も言わなかった。
やがて、僅かに目を伏せる。
「……その頃から、名を呼んでいたのか。」




