第338話 皇族の恋敵
兼成の頭の中は、真っ白になった。
(宮様が……姫を……。)
「お……恐れながら……。」
兼成は頭を下げ、唇を震わせた。
「当家の姫には……心に決めた男がおりまして……。」
相手は皇族。
しかし、兼成は今まで紗世の幸せを一番に考えてきた。
紗世が幸せに笑うのは、惟成の隣だということも分かっている。
そして、惟成も紗世を心から大切にし、そのことを迷いなく兼成に伝えてきた。
娘を任せるのは惟成しかいないと、今も思っている。
いくら中務卿宮という身分であろうと、紗世の幸せを考えれば、紗世には惟成がいることを伝えずにはいられなかった。
「左兵衛尉の源惟成か。」
静かな声が落ちた。
「ご存知でございましたか。源左兵衛尉とは、その……三夜通いをする段にまで来ておりまして……。」
「しかし、三夜はまだ果たしていないのだろう。」
「………は……はい……。」
「ならば、まだ夫婦ではない。人妻に手を出したというのなら醜聞だが、その心配はまだない。」
「………。」
「藤原。」
「……は。」
「藤原、頭を上げてくれ。」
穏やかな声だった。
「私は、そなたの娘を心から愛しておる。源惟成と過ごした時間の方が長いかもしれぬ。だが、想いの深さ、強さは負けぬ。」
「………。」
「そなたの姫とは、訳あって連絡も取れず、離れていた。しかし、その間も私は姫を思い続けていた。」
中務卿宮は、ためらいなく深く頭を下げた。
「私にも、姫を口説く機会を貰えないだろうか。」
「み、宮様!!! 頭をお上げください!!!」
兼成は慌てて声を上げた。
「口説くにあたり、身分を盾にしようとは思わぬ。姫がそれでも源左兵衛尉を選んだのなら、潔く諦めよう。無論、断られたとて、その後、姫やそなた、そして藤原家門に不利な扱いはしない。させないと約束しよう。」
「………宮様……。」
「頼む。藤原殿。」
兼成は小さく息を吐いた。
「宮様にそこまで誠実なことを言われましては、もはや私が言えることは何もございません。」
中務卿宮は、ゆっくりと顔を上げた。
「礼を言う。」
そして、どこかほっとした表情を見せた。
すると、
「姫君、お支度が整いましてございます。」
廊下から女房の声がした。
やがて、紗世が静かに御簾の内に座した。
「それでは、宮様。当家の姫と積もる話もございましょう。私は席を外しますゆえ、ごゆるりとお過ごしください。」
そう言うと、兼成は静かに部屋を後にした。
中務卿宮は、御簾の前に控える真砂へ目を向けた。
「おお。真砂ではないか。久しいな。」
責めるわけでもない。
ただ純粋に、旧知の者との再会を喜ぶような声だった。
「お久しぶりにございます。」
真砂は深々と頭を下げたまま、顔を上げなかった。
「二年前は知らなかったとはいえ、中務卿宮様には大変な御無礼を……。」
「紗世にも言ったが、素性を偽っていたのだ。仕方あるまい。」
そう言って、中務卿宮は昔と変わらぬ快活な笑顔を見せた。
「三条と鷹丸……互いが互いに欺いていたとは……何とも奇妙な話だな。互いに欺き合っておれば、本当のことを探す方が難しい。」
「ふふ。左様でございますね。」
紗世も思わず笑った。
部屋は、和やかで優しい雰囲気に包まれた。
そしてその日は、日が落ち、辺りが暗くなるまで、中務卿宮の声が四条邸に響いていた。
───時は少し遡る。
四条邸から二軒隣。
兼成は、源惟光・惟成親子の邸へやって来た。
「まあ。藤原検非違使尉様。まだ殿はお戻りには……。」
取次ぎの女房が言い切るより先に、兼成が口を開いた。
「今日は惟光ではない。惟成に用があって来た。」
「若君にございますか。いらっしゃいますので、どうぞこちらへ。」
女房に案内され、廊下を渡っていると、庭先で木刀を振るっている惟成の姿が見えた。
紗世と鷹丸のことを考えたくない一心で木刀を握り、ただただ無心になろうとしていたのだ。
「惟成!!」
兼成が声を掛けると、惟成はすぐに駆け寄ってきた。
「兼成様。このような姿で申し訳ありません。すぐに参りますので、少々お待ちください。」
そう言って惟成は廊下へ上がり、部屋の奥へと消えていった。
───
惟成が着替えを済ませて客間に入ると、兼成はゆっくりと口を開いた。
「惟成よ。姫を邸まで送ってきたのは、中務卿宮様であった。」
「中務卿宮様……っ!? 鷹丸様ではなかったのですか。」
「儂は、その鷹丸様という方がどのような方かは知らぬが、姫と共に帰ってきたのは中務卿宮様だったぞ。」
(どういうことだ……?)
惟成は眉を寄せた。
「何でも宮様は、宇治で姫と知り合い、今まで連絡も取れず離れていたが、本気で姫を愛していると言っていた。」
(紗世は、宇治では宮様とは結局会えなかったと言っていた。だが、宮様が紗世を愛しているという話は、鷹丸様が紗世に向けていた想いと重なる。何かがおかしい……。)
「兼成様。宮様は、どのような外見のお方ですか。」
「ん? うむ、そうだな。歳は二十代半ばのはずだ。切れ長の目に整った顔立ちをされておられるが、どこか柔らかさや穏やかさもあるような……。」
兼成は顎に手を当てながら答えた。
(中務卿宮様? それは鷹丸様では……? そういえば、鷹丸様は宮様の側近だと言うのに、二人が一緒にいるところを見たことがない……。)
惟成の中で、何か一つのことが繋がった気がした。
宇治にいた頃、紗世が湯殿を作ったり、雉団子粥を作ったりした時、材料はすぐに鷹丸が用意した。
中務卿宮がすんなり了承してくれたとしても、今思えば、あまりにも早かった。
(鷹丸様が……中務卿宮様!?)
「兼成様。それで、宮様は何と?」
「姫を口説く機会をくれと言ってきた。」
「!!?」
「惟成。姫にはお前がいるということも、ご存知だった。」
「知っていて……?」
「だが、身分を盾に姫に迫るつもりはないと。それでも姫がお前を選ぶというなら、潔く諦めると。紗世に断られたからといって、その後、姫や当家に不利な扱いが起きるようなことはしないとまで言っておられた。」
「そう……ですか。」
惟成は青ざめた。
「中務卿宮様……立派なお方だと思う。皇族であっても、それを笠に着ない。相手の立場や気持ちも考えてくださる、誠実な方だと。娘を持つ貴族なら、皆、宮様に娘を嫁がせたいと思うだろう。」
「………っ。」
惟成の顔から、さらに血の気が引いた。
そんな相手に、自分は勝てるのか。
皇族という身分だけではない。
人柄も、誠実さも、紗世への想いも、何一つ劣っていない。
そう思うと、胸の奥が重く沈んだ。
「だがしかし!!!!!」
突然、兼成が惟成の手を掴んだ。
「中務卿宮様だぞ! 宮様だぞ! 皇族だぞ!!!」
「か、兼成様……。」
「どんなに気さくでも皇族は皇族!!! そんなお方が身内になってみろ! 儂は一生、気が休まらん!!!」
兼成は、惟成の手を強く握りしめた。
「姫が宮様の妻になってみろ! 公務だ、社交だと、儂は会いに行くことすら難しくなるではないか!!!」
「そこですか……。」
「そこが大事なのだ!!!」
兼成は真剣な顔で言い切った。
「孫ができても、気軽に会わせてもらえるのか!? 抱かせてもらえるのか!? そもそも、宮様のお住まいへ儂が気軽に出入りできると思うか!?」
「兼成様……。」
「頼む、惟成!!!」
兼成は、とうとう惟成に縋りついた。
「負けるな!!! 絶対に負けるな!!! 姫の婿になれえええええ!!!」
「………。」
「お前ならできる! お前は姫を心から大切にしている! 姫もお前を大切に思っている! ならば、皇族だからといって引く必要などない!!!」
兼成は惟成の両肩を掴み、必死の形相で訴えた。
「惟成! 姫を頼む!!! 儂の娘を、あの姫を、どうかお前の妻にしてくれえええええ!!!」
「兼成様……。」
「頼むうううううう~~~!!!」
邸中に兼成の絶叫が響いた。




