第336話 皇族の求婚
「宇治にいた二年前、あの時から恋仲だったのか。」
中務卿宮は淡々と聞いた。
「……少なくとも私は、その時には既に惟成様をお慕いしておりました。」
「……つまり、あの者は二年前から三条の本当の身分や身元を知っていて、私に黙っておったのだな。」
紗世は慌てて顔を上げた。
「惟成様は悪くありません。私が……中務卿宮様を騙していたのですから。」
「名は紗世というのか。」
「え。」
「三条は偽名なのだろう。本当の名は先程、源が呼んでいたな。」
「はい。」
中務卿宮は、確かめるようにその名を口にした。
「紗世……。」
そして、ぱっと顔を輝かせる。
「よし。それでは私も、そなたのことは紗世と呼ぼう。」
「……。」
紗世は困惑の表情を見せた。
その顔を、中務卿宮は楽しんでいるようだった。
(え……。宮様が私の名前なんて呼んでいたら、周りが私と宮様の関係を誤解しちゃうじゃん。私は惟成と夫婦になるのに。)
中務卿宮は、紗世の考えていることが分かっているかのように、にっこりと笑った。
「紗世の考えていることは分かる。源と夫婦となるのに、私に名前で呼ばれたら、周りの者達に誤解されると思っているのだろう。」
「は……はい。」
「紗世。」
「はい。」
「本来なら、源と三夜通いも終え、夫婦となっているはずだったと言ったな。」
「はい。」
「しかし、それはまだ終えられていない。」
「……はい。」
「私は、全ての事には意味があるものだと思っている。源とそなたが、なかなか夫婦として歩み出せないのも、意味があるのだろう。」
中務卿宮は、紗世の顔をじっと見つめた。
「……もしかしたら、夫婦となる運命ではないのかもしれぬ。」
「そ……そんな。」
紗世は、思わず顔を上げた。
「そんな顔をするな。例えばの話だ。」
中務卿宮は穏やかに笑った。
「……だが、そなたと源は、まだ夫婦ではない。ならば、私が紗世に好意を寄せ、邸を訪ね、贈り物をしたとて、問題はない。」
「それは、そうですが……。」
「紗世。私にも、そなたに手を伸ばす権利はあると思っている。」
「手を伸ばす権利……ですか。」
「私も、三条を想っていた。だが、それは三条という偽りのそなただ。偽りであるが故に、宇治では贈り物をすることも、そなたの邸を訪ねることも……本来、恋愛でするようなことはできなかった。」
紗世は、気まずそうに顔を伏せた。
「……だから、私にも機会をくれ。」
「機会って……。」
「紗世を口説く機会だ。」
紗世の頬が、じわりと赤くなった。
「私は、惟成様と夫婦になるつもりです。」
「それでもよい。」
「よくありません。」
「なぜだ。」
「私の気持ちは、もう決まっていますから。」
中務卿宮は、しばらく黙って紗世を見つめていた。
やがて、握っていた手をゆっくりと持ち上げる。
「では、なぜ今、私の手を振りほどかない。」
「それは……。」
「私が皇族だからか。」
「……はい。」
紗世が小さく答えると、中務卿宮は目を伏せた。
その表情は、傷ついたようにも見えた。
だが、次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
「ならば、そなたが私を恐れなくて済むようにしよう。」
「え……。」
「私は、そなたを無理に連れていくつもりはない。」
中務卿宮は、紗世の手を離した。
ようやく自由になった手を、紗世は胸元へ引き寄せる。
「だが、諦めるつもりもない。」
「宮様。」
「そなたが誰を選ぶかは、そなたが決めればよい。」
中務卿宮は、惟成が去った方角へ視線を向けた。
「ただし、あの男がそなたを迎えに来るたび、私は黙って見送るほど物分かりのよい男ではない。」
「……。」
「次は、私もそなたを迎えに行く。」
中務卿宮はそう言うと、紗世の前へ回り込んだ。
「そして、そなたの父君にも、正式に話をする。」
「何をですか。」
「私が、そなたを妻に望んでいるということを。」
紗世の顔から、血の気が引いた。
「待ってください。それは……。」
「嫌か。」
「嫌というより、困ります。」
「また、困るのだな。」
「だって、私は惟成と……。」
「分かっている。」
中務卿宮は、静かに紗世の言葉を遮った。
「だが、そなたが源を選ぶならば、私にも敗れる覚悟が必要だろう。」
その声音には、これまでにない真剣さがあった。
「私は、最初から勝てると思っているわけではない。」
「宮様……。」
「それでも、何もせずに諦めることだけはできぬ。」
「……。」
紗世は、言葉を失った。
中務卿宮は、それを見て微かに笑った。
「それほど、あの男が好きか。」
「はい。」
紗世は、今度こそ迷わず答えた。
「私は、惟成様が好きです。惟成様以外の人と夫婦になるつもりはありません。」
中務卿宮の笑みが、わずかに薄れた。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
「そうか。」
「はい。」
「ならば、私はそなたのその気持ちごと、奪いにいこう。」
紗世は、背筋が冷たくなるのを感じた。
中務卿宮は、優しく微笑んでいる。
けれど、その瞳の奥には、皇族としての揺るがぬ意志が宿っていた。
「覚悟しておけ、紗世。」
中務卿宮は、紗世の目を見て、その名を呼んだ。
「私は、そなたを二度と失うつもりはない。」




