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第332話 それぞれの思惑

帝との対話は和やかに進んだ。


紗世が讃岐で行ったことについて、帝は興味深そうに耳を傾け、時折、問いを重ねた。


やがて、ひと通りの話が終わる。


帝は、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、そなたが作った麺だが。」


「はい。」


「うどんと素麺。どちらも食したが……。」


帝は少し考えるように目を伏せる。


「私は、うどんの方が好みだな。」


「……ありがとうございます。」


紗世は思わず微笑んだ。


「うどんは温かくしても美味しいですし、汁や具を変えても楽しめますから。」


「そうだな。」


帝も頷く。


「素麺も悪くはないが、うどんの方が腹にたまる。」


「はい。」


「ところで――。」


帝は、何気なく続けた。


「そなたは、麺以外にも何か作ったことがあるのか?」


「え?そうですね……。」


紗世は少し考える。


「食べ物なら、いくつかありますけど……。」


「ほう。」


帝の目が僅かに輝いた。


「それは、どのようなものだ?」


「例えば、魚を使った料理ですとか。あとは、保存の仕方を工夫したり……。」


紗世が説明を始める。


帝は興味深そうに聞いていた。


「なるほど。」


「ただ、美味しく食べたいと思って考えただけなのですが。」


「それが面白いのだ。」


帝は穏やかに笑った。


「そなたの話を聞いていると、次から次へと知らぬものが出てくる。」


「……そうでしょうか。」


「うむ。」


帝は少し楽しそうに笑った。


「また、何か面白い話があれば聞かせてくれ。」


「はい。私でよろしければ。」


「うむ。」


帝にとっては、それだけのことであった。


ただ、珍しいものを考える姫と話しているのが面白い。


それだけだった。


だが――。


その言葉を聞いた者達の胸中は、それぞれ大きく違っていた。


家宗は、僅かに口元を緩めた。


(……よい。帝ご自身が、またこの姫の話を聞きたいと仰せになった。)


家宗にとって、それは十分な手応えだった。


まだ入内の話など出てはいない。


帝がこの姫を妃にしたいと言ったわけでもない。


だが、それでよい。


(急ぐ必要はない。帝が自ら興味を持たれたのなら、あとは時を待てばよい。)


家宗は、満足げに目を細めた。


(ようやく……式家の駒が、帝の目に留まった。)


一方――。


右大臣は、静かに紗世を見ていた。


表情には出さない。


だが、その胸中には警戒が渦巻いている。


(まずいな。)


帝が一人の姫に興味を持つ。


それだけなら、何の問題もない。


だが、その姫の背後にいるのが藤原式家となれば話は別だ。


(家宗め……。)


かつて政の表舞台から遠ざかっていた式家が、再び動き始めている。


讃岐で名を上げた姫を帝の前へ出し、帝自身にその才を知らしめた。


そして今、帝の口から「また、この姫の話を聞きたい」と思わせるところまで来ている。


(偶然とは思えぬ。)


右大臣は、家宗を横目で見た。


その口元に浮かぶ、僅かな笑み。


(やはり、狙っているのか。)


左大臣もまた、同じように考えていた。


(藤原式家が、再び朝廷へ食い込もうとしている。)


これまでの政争では、式家は大きな力を持つことが出来なかった。


だが――。


もし、この姫が帝のお気に入りとなれば。


もし帝の御子を産むことにでもなれば。


(話は変わる。)


帝の血を引く皇子。


その母方の外戚となる家。


そこに式家が座れば――。


(式家が、再び力を得る。)


左大臣は、僅かに眉を寄せた。


(これは……放ってはおけぬ。)


その時だった。


右大臣と左大臣の視線が、一瞬だけ交わった。


言葉はない。


だが、互いに同じ危機感を抱いていることは、それだけで分かった。


そして――。


その二人以上に、焦っている者がいた。


中務卿宮である。


(まずい。)


帝の言葉が、頭から離れない。


『また、何か面白い話があれば聞かせてくれ。』


たったそれだけ。


それだけなのに――。


(お主上が、三条に興味を持たれた。)


中務卿宮は、紗世を見た。


御簾の前に座る、その姿。


自分がかつて宇治で出会った三条。


もう二度と会えないと思っていた女性。


それが今、目の前にいる。


しかも――。


帝の目に留まってしまった。


(もし……。)


中務卿宮の胸がざわつく。


(もし、お主上が、もっとこの姫と話したいとお思いになったら。もし、何度も宮中へ呼ばれるようになったら。)


そこから先を考える。


(……入内。)


その言葉が脳裏をよぎった。


中務卿宮は、思わず袖の中で拳を握った。


(駄目だ。それだけは、駄目だ!)


三条が帝の妃となれば、自分にはもう手の届かない場所へ行ってしまう。


いや――。


そんなことになれば、もう二度と、三条と二人で話すことすら出来ない。


(阻止せねば……。)


だが、何をどう阻止すればいいのか。


まだ帝は、入内など一言も口にしていない。


ただ、面白い話を聞きたがっているだけだ。


それなのに――。


(このままでは……。)


中務卿宮は、家宗へ視線を向けた。


家宗は静かに笑っている。


その表情を見た瞬間、中務卿宮の焦りはさらに増した。


(あの男は……。何かを企んでいる。)


それは間違いない。


そして――。


その中心にいるのが、三条なのだ。


一方、帝はそんな周囲の空気など気にすることなく、紗世を見ていた。


「そういえば、まだ聞いていない話があるな。」


「……何でしょう?」


「そなたが、これから何を作ろうとしているのかだ。」


「え?」


紗世が目を瞬く。


帝は、少し楽しそうに笑った。


「次に会った時にでも、聞かせてくれ。」


「……はい。」


紗世は深く頭を下げた。


帝にとっては、ただそれだけだった。


だが――。


その何気ない一言は。


家宗には、式家再興への兆し。


右大臣と左大臣には、政争の新たな火種。


そして中務卿宮には――。


愛する三条を失うかもしれない、恐ろしい予兆となっていた。



────



帝との対話が終わると、命婦が静かに紗世へ目を向けた。


「それでは藤原の姫君。そろそろお下がりくださいませ。」


「……はい。」


紗世は小さく頷いた。


(終わった……。)


胸の奥で、ようやく息を吐く。


初めての参内。


帝の御前。


しかも、右大臣や左大臣、中務卿宮まで居並ぶ中での拝謁だった。


(緊張した……。)


けれど、帝は思っていたよりもずっと穏やかな人だった。


うどんの話をすれば楽しそうに聞いてくれたし、素麺のことまで覚えていた。


(……うどんの方が好きなんだ。)


紗世は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


そして、教えられた通りに身を整える。


「本日は、お目通りを賜り、誠にありがとう存じます。」


深く頭を下げる。


「うむ。また話を聞かせてくれ。」


「はい。」


紗世はもう一度頭を下げた。


そして、静かに身を返す。


その瞬間――。


(……あ。)


視線を感じた。


紗世が僅かに顔を上げる。


中務卿宮が、こちらを見ていた。


(……鷹丸様。)


先ほどから何度も感じていた視線。


けれど、帝の御前では話しかけることなど出来ない。


紗世もまた、何も言わずに視線を伏せた。

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