第333話 宮中追走劇
「………ふぅ。」
紗世は退出すると、小さく息を吐いた。
(さて!! 早く帰らなきゃ!! 鷹丸……中務卿宮様に会ったらマズイもんね。)
「あの……帰りはこの廊下をずっと行けば良いんですよね。」
紗世は前を歩く女房に聞いた。
「ええ。左様でございます。」
それを聞いて、紗世は丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございませんが、少し急ぎますので、案内はここまでで大丈夫でございます。」
「かしこまりました。」
紗世は軽く頭を下げると、早歩きで歩き始めた。
────
謁見の間では、帝がまだ紗世の話をしていた。
「誰も考えたことの無いものを考え、しかも形にするとは……実に面白い姫であったな。」
「……しかし、お主上。やはり女人というものは、静かに男を立て、淑やかに微笑み場を和ませるが美徳と存じますが……。」
右大臣は眉を下げながら言った。
「まあ、確かに奥ゆかしい姫は美徳と思うが、あの藤原の姫はあれが魅力であろう。全ての姫が奥ゆかしいとなれば、皆同じでつまらぬ。」
そんな話をしていた時だった。
「────お主上。」
中務卿宮が静かに口を開いた。
「む? どうした、中務卿宮?」
帝が首を傾げる。
「大変恐縮でございますが……今朝から腹調子が思わしくなく……しぶり腹にて、退出させていただきたく。」
そう言いながら、軽く頭を下げ、徐ろに立ち上がった。
「し……しぶり腹?」
帝が固まった。
「はい。」
女房達も固まった。
「そうか。それならば早く行くが良い。」
帝は何とも言えない顔になった。
「急ぎ、樋殿へ行かせていただきます。」
至って真面目な顔。
「これにて失礼いたします。」
中務卿宮は優雅に一礼すると、普段より僅かに急いだ足取りで部屋を後にした。
部屋を出ると、中務卿宮の目つきが変わった。
先ほどまでの苦しげな表情は、どこにもない。
長く続く廊下を見据える。
そのはるか先には、先ほど退出した紗世がいる。
「……。」
中務卿宮は、迷うことなく歩き出した。
────
「宮中って、何でこんなに無駄に広いの……。」
紗世は疲れから、早歩きから普通の歩く速さに戻っていた。
とぼとぼと歩きながら、考えるのは惟成と父・兼成のことだった。
(……二人とも、今頃何してるのかな。鬼は見つかったのかな。いつ帰ってくるのかな……。)
紗世はそっと髪飾りに触れた。
(惟成と早く、正式に夫婦になりたいのに……。鬼退治から早く帰ってきてくれないと、年明けたら十七歳になっちゃうよ。)
紗世は頭を小さく横に振った。
(大丈夫! 惟成は強いし、優秀だし、鬼なんてすぐ見つけて、やっつけちゃうんだから!)
顔を上げた、その時だった。
ふと、遠く後方から衣擦れの音が聞こえてきた。
(宮仕えの女房かな?)
何気なく後方を振り返る。
「!!!!???」
後方を、物凄い速さで早歩きしている男が視界に入った。
(あれ……たか……中務卿宮様!!??
え、待って。めちゃくちゃ早いんだけど!?)
みるみるうちに、紗世との距離が縮まってくる。
(マズイ!! 追いつかれる!!悠長に歩いてらんないじゃん!!)
紗世は裾を少し持ち上げ、再び早歩きで歩き始めた。
スッ、スッ、スッ……。
後方からも、
スッ……スッ……スッ……。
(いや、歩幅全然違うじゃん!!こんなに急いで歩いてるのに、全然差が開かないどころか、縮まってる気がする……!)
紗世は後ろから迫ってくる中務卿宮の足音が、まるでホラー映画のように感じられた。
(怖い怖い怖い!!何で追ってくるの!?)
廊下を曲がった直後だった。
「姫君。」
後ろから声を掛けられた。
紗世は一瞬、足を止めそうになったが、再び早歩きをした。
(聞こえない。聞こえてません。)
「姫君!」
(ぅう……ごめんなさい!)
中務卿宮が後ろから呼ぶが、聞こえぬ振りを貫く。
しかし、歩く速さは中務卿宮の方が速い。
声はすぐ後ろ。
もう、無視できぬ所まで来ていた。
「藤原の姫君! 待たれよ!!」
「待ちません!」
即答だった。
「え?」
あまりの即答に、中務卿宮は一瞬面食らった。
「ま……待たぬとは……! 何故だ!?」
「追ってくるからです!」
「用がある!」
「私はありません!!」
紗世は言い切ると、裾を大きく持ち上げた。
そして――。
走った。
「……!」
中務卿宮が目を見開く。
「は? え? 走っ……!?」
紗世は走りながら、ふと我に返った。
(あ。しまった。宮中で走ってる。)
普段なら、あり得ない。
宮中を歩く女房たちも、殿上人も、皆が衣を乱さぬよう静かに歩いている。
ましてや、姫君が廊下を駆け抜けるなど――。
(でも、今はそれどころじゃない!!)
後ろを見る。
中務卿宮が追ってくる。
「待て!」
(嫌です!!)
紗世はさらに走った。
そして――。
「待てと言うにいいいいいいーーーっ!!!」
中務卿宮も走り出した。
「えええええええ!?」
紗世は思わず振り返った。
(走った!!中務卿宮様が走った!!宮中で!?)
廊下の先にいた女房が、こちらを振り返る。
さらにその向こうにいた女房も振り返る。
「……。」
「……。」
二人の目の前を――。
藤原の姫君が走っていく。
その後ろを――。
中務卿宮が走っていく。
「……。」
「……。」
女房たちは、ただ呆然と見送った。
「……今のは。」
「見なかったことにいたしましょう。」
「……左様でございますね。」
一方。
(きゃああああああああ!!!!)
紗世は必死に走っていた。
(いやあああああああああ!!!まだ追ってくるうううううう!!!)
「というか、三条!!! そなた、足速いな!!」
(普段、皇族は運動なんてほとんどしないでしょ!!私は馬に乗るために特訓したから、体力はあるんだから!!)
紗世は内心で妙な勝ち誇りを覚えながら、必死に走った。
しかし――。
「……っ、ぐぅっ……!!!」
ガタンッッ!!
後方で大きな音がした。
「……え?」
紗世は反射的に振り返った。
そこには、中務卿宮が胸を押さえ、廊下で膝をついて蹲っている姿があった。
(え!?もしかして、何か持病が!?)
さすがに放ってはおけない。
紗世は慌てて引き返した。
「だっ……大丈夫ですか!?」
中務卿宮の前まで駆け寄り、手を差し伸べる。
その瞬間――。
ガシッ!!!
差し伸べた手を、強く掴まれた。
「え……?」
紗世が目を見開く。
ゆっくりと、中務卿宮が顔を上げる。
その顔には――。
先ほどまでの苦しそうな表情など、どこにもなかった。
むしろ、満面の笑み。
「捕まえた♪」




