第330話 御前の再会
───二日後。
宮中。
紗世は、御簾の前に静かに座していた。
今日は、初めての参内である。
昨夜から何度も母に衣装を確認され、朝になってからは髪を整えられ、香まで焚かれた。
そして今。
「……苦しい。」
紗世は小さく呟いた。
「姫君。何を仰っているのです。これほど見事な御装束なのですから、少しくらい我慢なさいませ。」
傍らの女房が苦笑する。
「だって、重いんですもの。」
紗世は袖を少し持ち上げた。
今日はいつもの簡素な装いとは違う。
何枚もの袿を重ね、髪も美しく整えられている。
そして、髪には惟成から贈られた青緑の布の髪飾り。
それだけは、どうしても外す気にはなれなかった。
(……惟成、大丈夫かな。)
鬼討伐へ向かった惟成のことが頭をよぎる。
父の兼成も一緒だ。
本当なら、今日の参内にも父に付き添ってほしかった。だが、二人はまだ戻っていない。
(早く帰ってきてくれればいいんだけど。)
その時
「藤原の姫君。そろそろお時間にございます。」
命婦の声がした。
「はい。」
紗世は静かに姿勢を正した。
そして、御簾の向こうへ進む。
やがて案内された先で、紗世は息を呑んだ。
目の前には、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。
右大臣。
左大臣。
そして――
皇族の血筋と思われる品の良さが漂う公達。
紗世の視線が、ふとその男へ向く。
その瞬間。
「――え……?」
心臓が、大きく跳ねた。
(……鷹丸様?)
見間違えるはずがない。
あの顔。
あの目。
以前、自分を見つめていた時と同じ――あの切なげな眼差し。
(なんで!?)
紗世の頭の中が、一瞬で真っ白になる。
(鷹丸様は中務卿宮様の側近だったはず……。中務卿宮様が出席できないから、その代わり……?そんなことある……!?)
紗世は必死に平静を装った。
だが、どうしても気になる。
もう一度だけ、そっと視線を向ける。
やはり、鷹丸だ。
宇治で何度も顔を合わせた男。
自分を見つめていた、あの目。
(やばい。これ、絶対やばいやつだ。)
紗世の心臓が早鐘のように鳴る。
その時だった。
「中務卿宮よ。」
帝の声が響いた。
紗世は反射的に顔を上げた。
「そなたは――。」
「……はい。」
その男が静かに顔を上げる。
「――。」
紗世の思考が止まった。
帝は、目の前の男を見ている。
「そなたも、この姫について何か聞いておるのか。」
「はい。讃岐でうどんを考案した姫だと伺っております。」
その声。
その話し方。
紗世の顔から、すっと血の気が引いた。
(…………え。中務卿宮?今……帝が……中務卿宮って……言った?)
紗世はゆっくりと、その男を見る。
男は何事もなかったように帝へ答えている。
その姿は、間違いなく――
鷹丸だった。
(…………嘘。)
頭の中で、何かが崩れ落ちる。
(鷹丸様が……中務卿宮様……?)
「…………。」
紗世は固まった。
(嘘でしょ!!?鷹丸様が、中務卿宮様本人だったの!?)
そして、その瞬間。
宇治での日々が、一気に蘇った。
(あああああああ!!私、宮様相手にめっちゃ気安く話しかけてたじゃん!!料理作る時も「邪魔だから出てください」とか言ったし!!嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘!!!無礼にも程があるでしょ!!)
そして、はたと脳裏に蘇った。
鷹丸の真剣な眼差し。
『一目で恋に落ちたのだ。………帰したくない。』
(ッッはあああああああーーーっ!!!だめーーー!!今、思い出しちゃダメえええ!!!)
紗世は必死に顔を伏せた。
(私、宮様にあんなこと言わせてたの!?というか、普通に隣に座って話してたよね!?めちゃくちゃ気安く接してたよね!?宮様相手に!?)
頭の中が、完全に混乱していた。
そして、恐る恐るもう一度だけ視線を向ける。
鷹丸は、じっとこちらを見ていた。
「……。」
(見てる。めちゃくちゃ見てる!!)
紗世の背中に、冷たい汗が流れた。
だが、その頃。
鷹丸の胸中もまた、大きく揺れていた。
(待て……。)
目の前にいる姫。
藤原兼成の娘。
讃岐のうどんを考案したという姫。
(あれは……。)
鷹丸は、目を凝らした。
似ている。
いや。
だが、そんなはずはない。
三条は――
もういない。
自分の前から姿を消した。
そして、自ら鬼の妻になったのだと聞いていた。
(……藤原兼成の娘?まさか。)
鷹丸は紗世を見つめた。
だが、顔立ちだけでは確信できない。
年も同じくらい。
雰囲気もどこか似ている。
それでも、別人だと思うしかなかった。
――その時。
帝が紗世に問いかけた。
「では、そなたは何故、あのような麺を作ろうと思ったのだ。」
「はい。最初は、讃岐で手に入る小麦をどう使おうかと思いまして――。」
その声を聞いた瞬間。
鷹丸の瞳が揺れた。
(――――!)
胸の奥を、何かが貫いた。
その声。
その話し方。
少し考えてから答える時の間。
言葉を選ぶ時の癖。
そして――。
何よりも。
あの柔らかな声。
(……間違いない。)
鷹丸は息を呑んだ。
(あの声だ。あの話し方だ。――三条だ。)
何度も夢に見た。
何度も思い出した。
もう二度と聞けないと思っていた声。
それが今、目の前から聞こえている。
(生きていた。)
鷹丸の胸が、大きく震えた。
(あの姫が三条だ。間違いない!)
さっきまで胸を締め付けていた切なさが、一気に別の感情へと変わっていく。
喜び。
驚き。
そして――抑えきれないほどの想い。
(では……。あの噂は嘘だったのか。三条は、鬼の妻になどなっていなかった!!)
鷹丸は、思わず身を乗り出しそうになる。
だが、帝の御前。
そんなことは出来ない。
拳を膝の上で強く握る。
(もっと傍に行きたい。話したい。声を掛けたい……三条!!)
鷹丸の胸の奥から、堰を切ったように想いが溢れ出す。
(抱きしめたい。)
だが、それは叶わない。
今は帝の御前なのだ。
目の前にいるのに。
ほんの数歩先にいるのに。
触れることも声を掛けることも出来ない。
鷹丸は、ただ紗世を見つめるしかなかった。
その視線を感じながら。
紗世は、必死に帝の問いへ答えていた。
「……ですから、生地を何度も捏ねて、しばらく休ませてから――。」
(やばい。絶対気付かれてる。どうする?どうするの私!?)
紗世は表情を崩さないようにしながら、頭の中だけで悲鳴を上げていた。
一方。
鷹丸の胸には、たった一つの思いしかなかった。
(やっと……やっと、見つけた。)
もう二度と会えないと思っていた人。
もう二度と、その声を聞けないと思っていた人。
それが今。
帝の御前で、何事もなかったかのように話している。
鷹丸は目を伏せた。
そうしなければ、感情が顔に出てしまいそうだった。
(……三条。)
心の中で、その名を何度も呼ぶ。
そして――。
(今度こそ、離したくない。)
その想いだけが、胸の奥で燃え続けていた。




