第321話 会うために
惟成が執務の間へ戻ると、先ほどまでと同じように書類が山と積まれていた。
机の上には、まだ目を通していない文書が幾つも残っている。
「……これを、今日中にか。」
思わず呟いた。
いつもなら、ため息の一つでも吐いていただろう。
だが、今日は違った。
惟成は袖を整えると、黙って書類を手に取った。
一枚。
また一枚。
目を通し、必要なものを仕分け、処理を進めていく。
「兵衛尉様。」
向かいで別の文書を整理していた武官が声を掛ける。
「何だ?」
「こちらの件ですが、明日までに取りまとめればよろしいでしょうか。」
「いや。今日中に終わらせる。」
「今日中、ですか?」
「ああ。」
武官が目を丸くする。
「しかし、こちらは急ぎでは……。」
「急ぎになった。」
「は……。」
惟成は顔を上げた。
「他にも残っているものがあるだろう。全部出せ。」
「全部……ですか?」
「そうだ。」
武官は戸惑いながらも、机の脇に積まれていた書類を運んできた。
一つ。
二つ。
三つ。
積み上げられていく書類を見て、惟成は眉を寄せる。
「……これだけか?」
「はい。」
「他には?」
「ございません。」
惟成は少し考えた。
「本当に?」
「は、はい。」
「ならばよい。」
惟成は筆を取った。
これを全部終わらせる。
今日、終わらせる。
明日も。
明後日も。
何としてでも時間を作る。
紗世が参内する日が決まる前に。
三夜を始める前に。
いや。
三夜を始めるために。
「……紗世。」
ふと、讃岐で見た紗世の顔が浮かんだ。
笑っていた。
いつものように、何の疑いもなく。
自分が帰ってくることを待っているような顔だった。
その顔を思い出すと、筆を持つ手に力が入った。
「……待ってろ。」
誰にも聞こえぬよう、惟成は小さく呟いた。
その時だった。
「源兵衛尉。」
背後から声がした。
振り返ると、左兵衛府の上官が立っていた。
「何でしょう。」
「先ほど、藤原検非違使尉が来ていたようだが。」
「はい。」
「何かあったのか?」
惟成は一瞬だけ黙った。
そして答える。
「……少し、私用の話を。」
「そうか。」
上官はそれ以上追及しなかった。
だが、立ち去る前に一言だけ残した。
「そういえば、そなたの仕事についてだが。」
惟成の筆が止まる。
「まだ幾つか追加になるかもしれぬ。」
「…………。」
「讃岐の件で、確認しておきたいことがあるそうだ。」
惟成はゆっくりと顔を上げた。
「それは……いつまでに?」
「明日までに、と。」
「明日……。」
惟成は静かに息を吐いた。
やはり、来た。
また仕事が増える。
だが、もう驚きもしなかった。
「承知しました。」
「頼んだぞ。」
上官が去っていく。
惟成はしばらく、その背中を見つめていた。
そして、再び書類へ目を落とす。
「……そう来るか。」
誰かが自分を紗世のもとへ行かせまいとしている。
兼成はそう言った。
ならば――。
「こちらも、そう簡単には諦めん。」
惟成は筆を走らせた。
一枚。
また一枚。
夜が深くなっても、手を止めなかった。
その頃。
四条邸では――。
「紗世様。」
真砂が、紗世の前に静かに座った。
「何?」
「本日の命婦様のお話……。」
「うん。」
「殿がお戻りになってから、何やら急いでお出掛けになりましたでしょう。」
「うん。何だか変だった。」
紗世は首を傾げた。
「父上、命婦様が来たって聞いた途端、すごく怖い顔になって……。」
「…………。」
真砂は言葉を選んだ。
「紗世様。」
「何?」
「宮中へ参内されるということが、どういうことなのか……少し、お考えになった方がよろしいかと。」
「どういうことって?」
「お主上のお目に留まるということにございます。」
紗世は黙った。
「でも、うどんの話をするだけでしょ?」
「そうかもしれません。」
真砂は微笑んだ。
「ですが、周りの者がそう思うとは限りませぬ。」
「…………。」
紗世は先ほどの命婦の言葉を思い出した。
『才ある姫だ』。
「……お主上が、私に興味を持ったってこと?」
「そのように受け取る者は、多いでしょう。」
紗世は、少しだけ不安になった。
お主上。帝。
源氏の君。
そして、自分。
現代の知識では知っている。
この時代、帝の言葉には、それだけで大きな意味が生じる。
まして、自分はまだ未婚だ。
「……なんか、嫌な予感がする。」
紗世がぽつりと呟いた。
真砂は答えなかった。
ただ、静かに頭を下げる。
紗世は、ふと窓の外へ目を向けた。
もう日が落ちている。
「……惟成、まだ来ないな。」
小さく呟く。
その声には、寂しさが滲んでいた。
「忙しいのかな。」
そう言って、紗世は笑おうとした。
だが、その笑顔はどこか寂しかった。
「……早く帰ってきてくれればいいのに。」
その頃、左兵衛府では。
惟成が最後の書状を書き終えていた。
「……終わった。」
外を見る。
夜はすっかり更けていた。
惟成は筆を置き、立ち上がった。
「明日も仕事か……。」
だが、その顔に諦めはなかった。
「ならば、明日の分も終わらせる。」
そして、惟成は小さく呟いた。
「……待ってろよ、紗世。」
今度こそ。
何としてでも、会いに行く。
その決意だけを胸に、惟成は再び書類へ手を伸ばした。




