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第320話 帝の御目に留まった姫

───左兵衛府


「惟成! 惟成はおるか!? 源惟成ーーーっ!!!」


兼成は左兵衛府へ着くなり、大声で惟成を呼んだ。


「これはこれは……藤原検非違使尉様ではありませんか。いかがなさいました?」


左兵衛府の武官が、慌てて兼成のもとへ駆け寄ってくる。


「兵衛尉の源惟成はおるか!?」


「源兵衛尉様にございますか? 執務の間にいらっしゃるかと……。」


「案内せい!!!」


「は、はいっ!」


武官は兼成の気迫に圧されながら、惟成のいる場所へと案内した。


「こちらでございます。」


武官が戸を叩こうとした、その時だった。


兼成が武官を押し退け、ものすごい勢いで戸を叩いた。


ドンドンドンドンッッッ!!!!


「惟成ぃっ!! おるか!? 惟成ぃぃぃいっ!!!」


戸の向こうから、慌ただしく紙をかき集める音が聞こえた。


やがて戸が開く。


「か、兼成様!? なぜここへ!?」


「なぜではないわぁ! こんな所で何をちんたらしておるのだあっ!」


「ち、ちんたらって……。兼成様、一体何を……うおっ!」


兼成は惟成の胸倉を掴むと、そのまま廊下の隅へと引きずっていった。


「三夜通いを許したというのに、未だ姫のもとへ通っておらぬではないか!」


「申し訳ございません。私も何とか通おうとはしているのですが、仕事が次々と舞い込みまして……。」


「それが妙だと言っておる。」


兼成の目が鋭くなる。


「讃岐から戻って以来、報告に後処理。それが終わったと思えば、また別の仕事だ。お前が姫のもとへ通おうとするたび、まるで狙ったように仕事が入っておる。」


「…………。」


「最初は、讃岐での仕事が多かっただけだと思っていた。だが、半月近く経っても途切れぬとなれば話は別だ。」


惟成の表情が変わった。


「……何か、ご存知なのですか?」


「今日、四条邸に宮中から命婦が来た。」


「宮中から……?」


「お主上の御使いだ。」


惟成の顔が強張る。


「姫に、何が?」


「讃岐から献じたうどんを、お主上がいたくお気に召されたそうだ。誰が考案したのかとお尋ねになり、姫本人から話を聞きたいと仰せになった。」


「それで……参内を?」


「ああ。後日、参内せよとのことだ。」


惟成は黙り込んだ。


兼成はさらに続ける。


「そして、お主上は姫を『才ある姫』と仰せになったそうだ。」


「…………。」


惟成の顔から、血の気が引いていく。


「お主上が……姫を。」


「ああ。」


兼成は低い声で言った。


「もちろん、本当にうどんのことを知りたいだけなのかもしれぬ。姫自身から話を聞きたいというのも、それだけの意味かもしれん。」


「はい……。」


「だがな。」


兼成は惟成を真っ直ぐに見据えた。


「未婚の姫を『才ある姫』とお褒めになり、その姫を御前へ参内させる。宮中の者たちが、それをどう受け取ると思う?」


惟成は答えなかった。


その意味は、すぐに分かった。


帝が未婚の姫君に目を留めた。


それだけで、ただの食べ物の話では済まなくなる。


「……入内じゅだい。」


その言葉が、惟成の口からこぼれた。


兼成は黙って頷いた。


「そういう話に転がる可能性は、十分にある。」


惟成の胸が、強く締め付けられた。


紗世が帝の后となる。


宮中へ入り、自分などには決して届かぬ場所へ行ってしまう。


そうなれば、もう四条邸へ通うこともできない。


簾越しに顔を見ることも、声を聞くことも。


あの笑顔を、自分に向けてもらうことも。


「…………。」


惟成は、ぎゅっと拳を握った。


まだ何も始まっていない。


三夜通いさえ、まだ始められていない。


それなのに。


失うことを想像しただけで、息が苦しくなった。


「……嫌だ。」


気付けば、声に出ていた。


「何?」


兼成が聞き返す。


「……いえ。」


惟成は顔を上げた。


「お主上が何をお考えなのかは、分かりません。」


「ああ。」


「ですが……。」


一度、言葉を呑み込む。


そして、今度は誤魔化さずに言った。


「姫を、誰かに渡したくありません。」


兼成の目が僅かに見開かれる。


惟成自身も、その言葉を口にして初めて気付いた。


自分は、紗世を帝に取られることが怖いのではない。


紗世を、自分以外の誰かのものにされることが嫌なのだ。


「……そうか。」


兼成は短く答えた。


そして、声を落とす。


「ならば、なおさら急がねばならぬ。」


「はい。」


「儂はな、お前の仕事が増えていることと、今日の命婦の件が無関係だとは思えん。」


惟成が顔を上げる。


「……やはり、誰かが?」


「まだ断言はできぬ。」


兼成は周囲を警戒するように辺りを見回した。


「だが、お前を姫のもとへ行かせたくない者がいる。そして同時に、姫を入内させたいと考えている者たちがいる。」


「…………。」


「お前が姫のもとへ通えば、二人の間に話がまとまる。そうなれば、入内を望む者たちには都合が悪い。」


惟成の顔が険しくなる。


「だから、私を仕事で縛り付けている……。」


「儂はそう疑っておる。」


兼成は頷いた。


「仕事を与え続ければ、お前は姫のもとへ行けぬ。その間にお主上の御前へ姫を出す。そこでお主上の御心が動けば――。」


兼成はそこで言葉を切った。


その先を、惟成は理解していた。


「……入内の話を進める。」


「そういうことだ。」


惟成は拳を握り締めた。


怒りよりも先に、焦りが込み上げる。


自分が仕事に追われている間にも、紗世の周囲では、自分の知らないところで話が進んでいる。


しかも、その行き先には、自分には到底抗えぬほど大きな力がある。


「……姫が参内するのは、いつです?」


「まだ決まっておらぬ。だが、そう遠くはないだろう。」


兼成は惟成の肩を掴んだ。


「だから、それまでに三夜通え。」


「…………。」


「仕事が何であろうと構わぬ。終わらせろ。」


「はい。」


「姫との三夜を済ませておけ。」


惟成は強く頷いた。


「必ず、参ります。」


兼成は手を離した。


「それでいい。」


惟成はその場を離れようとした。


だが、足を踏み出したところで、ふと立ち止まる。


三夜。


たった三夜だ。


今までの半月、仕事に追われて、紗世に会うことすらできなかった。


その間に、帝が紗世へ目を留めた。


ならば、もう一日も無駄にはできない。


帝に何を思われようと。


誰が紗世を宮中へ迎えようと動き出そうと。


自分は、紗世に会いたい。


ただ、それだけだった。


讃岐から帰ってきてから、ずっと会えていない。


声を聞きたい。


顔を見たい。


そして、三夜を通して――。


紗世の隣にいるのは自分なのだと、互いに確かめたい。


それが、何よりも大切だった。


「……早く、会いたい。」


誰にも聞こえぬほど小さな声で、惟成は呟いた。


積み上げられた仕事を思えば、気が遠くなりそうだった。


だが、今はそれすら苦にはならない。


終わらせる。


何としてでも終わらせる。


そして、一刻でも早く紗世のもとへ行く。


帝に取られるのが怖いからではない。


誰かに急かされたからでもない。


ただ――。


紗世に会いたくて、仕方がなかった。

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