第322話 今宵、君のもとへ
───四条邸
未の刻を過ぎた頃だった。
「紗世様! 惟成様から文が来ました!!」
真砂が文を手に、早足で紗世の部屋へ入ってきた。
「惟成から?」
「はい。」
紗世は文を受け取ると、胸を高鳴らせながら開いた。
そこには、短い歌が記されていた。
「待ちわびし 宵を違へじ 今宵こそ
いかなる道も 君がもとへと」
紗世はしばし、その歌を見つめていた。
やがて――
ふっと頬が緩む。
「………来るって。」
「え?」
「何があっても、来るって。」
その言葉を聞いた瞬間、真砂の顔がぱっと明るくなった。
「まあ……! まあまあ!! それなら急いで今宵の支度をしなくては!!。」
「えっ、ちょっと真砂――。」
「何をのんびりしていらっしゃるのです! 今日は大切な夜なのでございますよ。」
そう言うなり、真砂は大張り切りで紗世の支度を始めた。
衣を選び、髪を整え、香を焚く。
いつもの惟成の訪れなら、ここまで騒ぐこともない。
けれど今宵は違う。
三夜通いの、最初の夜。
婚姻の習わしに従い、惟成が紗世のもとへ通う、その最初の夜なのだ。
そして――
二人がようやく、夫婦として歩み始める夜でもある。
やがて、空が夕暮れの色に染まり始めた頃。
支度を終えた紗世は、鏡に映る自分の姿を眺めながら、少し不安そうに振り返った。
「ね……ねえ、真砂。この衣でいいかな。」
「はい。よくお似合いでございますよ。」
「惟成が好きそうなのを選んだんだけど……おかしくない。」
「おかしいどころか、とてもお綺麗でございます。」
紗世は少し照れながら、自分の髪に手をやった。
そこには、青緑色の布を使った髪飾りがある。
「これ……。」
「はい。」
「この髪飾りの布、讃岐の市で惟成が買ってくれたの……。」
紗世は髪飾りにそっと触れた。
讃岐で過ごした日々。
共に笑ったこと。
共に戦ったこと。
そして、離れていた半月あまり。
そのすべてが、この小さな髪飾りに詰まっているような気がした。
「……今夜、やっと会えるんだ。」
紗世が呟いた、その時だった。
「姫君。」
女房の声がした。
「源惟成左兵衛尉様がお見えになりました。」
紗世の胸が、大きく跳ねる。
「……来た。」
思わず立ち上がりそうになった紗世を、真砂が微笑ましそうに見つめた。
「はい。お越しになりましたよ。」
やがて、惟成が姿を現した。
いつもの狩衣ではない。
今宵は婚姻の習わしに合わせ、直衣を身にまとっている。
御簾の前に座した惟成に、女房たちは恭しく頭を下げた。
普段ならば、もっと気安い雰囲気だった。
何度も顔を合わせてきた惟成である。
けれど今宵ばかりは違う。
此度の訪れが、いつもの訪問ではない。
三夜通い、その最初の夜なのだ。
女房たちが下がり、二人きりになる。
途端に、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「いらっしゃい。」
「ああ。」
いつもの二人だった。
紗世は御簾越しに惟成を見つめた。
「仕事、大丈夫だった? 疲れてない。」
「心配するな。」
「でも……。」
「お前に会うためなら、この程度どうということはない。」
「……もう。」
紗世は小さく笑った。
そして、少し迷ったあとに口を開く。
「ねえ……私、そっちに行ってもいい。」
惟成は一瞬だけ目を細めた。
「……どうぞ。」
紗世は御簾の内から出ると、惟成のもとへ膝を進めた。
すぐ目の前まで来る。
そして、そっと手を伸ばした。
指先が、惟成の頬に触れる。
「……少し疲れてる。」
惟成は何も言わず、その手に自分の手を重ねた。
温かい。
その温もりを確かめるように、しばらく黙っていた。
そして――
「………やっと、会えた。」
その声は、いつもの惟成よりもずっと低く、静かだった。
紗世の胸が締めつけられる。
「……うん。」
惟成は紗世の手を握ったまま、ぽつりと続けた。
「讃岐から戻ったら、すぐに三夜通いを始めるつもりだった。」
「うん……。」
「それなのに……。」
惟成は紗世を見つめた。
「半月以上も、お前に会えなかった。」
その言葉に、紗世の目が潤む。
「………会いたかった。」
「……私も。」
紗世は堪えきれず、惟成の胸に身を寄せた。
「………すっごく会いたかった。」
惟成の腕が、紗世の背に回る。
強く抱きしめられる。
その腕の力だけで、惟成がどれほど会いたかったのかが伝わってきた。
「……すまなかった。」
「え?」
「文を送るたびに、お前を待たせた。がっかりしたろう?」
紗世は惟成の胸に頬をつけたまま、小さく頷いた。
「うん……。」
それでも、少しだけ声が震えた。
「でも、惟成は讃岐で沢山功績を上げただろうし……仕方ないって、自分に言い聞かせてた。」
惟成は、紗世の髪をそっと撫でる。
「功績でいうなら、お前の方が上だろ。」
「そんなこと……。」
「讃岐の者たちが今もお前の話をしているのを知っている。」
「……。」
紗世は答えなかった。
讃岐で、自分がしてきたこと。
人々の暮らしを変えたこと。
その結果が、今の自分を京へと引き戻した。
そして――
お主上の目に留まることにもなった。
「……私が、余計なことをしたからかな。」
「何がだ。」
「讃岐で色々したこと。」
紗世の声が少し沈む。
惟成は、その意味をすぐに察した。
「命婦が来たって?」
「うん……。」
「お主上は何と。」
「うどんについて聞きたいって。」
「それから?」
「讃岐でしてきたことを、殊の外褒めてたって。」
惟成は黙って紗世を見つめた。
「………私のこと、『才ある姫』だって。」
「参内を、求められたんだろ。」
「……うん。」
紗世は小さく頷いた。
「日取りはまだ決まってないけど……命婦様の様子からして、そう遠くないと思う。」
「そうか。」
惟成の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
紗世はその胸に抱かれながら、何も言わなかった。
今はまだ――
この腕の中にいられる。
今夜だけは。
紗世は目を閉じ、惟成の胸にそっと頬を寄せた。




