第309話 山の恵みと、師弟の別れ
弁当を食べ終え、和やかな空気が流れる中、惟成は改めて天狗へ向き直った。
「天狗。」
「お? 何だ、惟成。」
天狗は腹いっぱいに弁当を食べ、すっかり上機嫌だった。
惟成はその場に膝をつき、姿勢を正す。
そして天狗の目を真っ直ぐに見据え、両手を付き、深々と頭を下げた。
「私のような若輩者に時間を割き、貴重な教えを賜りましたこと、深く感謝いたします。」
天狗は目を丸くした。
惟成は顔を上げる。
「お陰で、武人として一回り成長することができました。この先も此度の教えを忘れることなく、精進して参ります。ありがとうございました、師匠。」
天狗はしばらく惟成を見つめていたが、やがて口元を緩めた。
「はは……師匠、か。柄ではないと思ったが、呼ばれて悪い気はせんな。」
腕を組み、満足そうに笑う。
「惟成には、まだまだ教えることはある。だが、今回教えたことが全ての土台だ。意識せずとも自然にできるようになれ。それができて、なお更なる高みへ行きたいと思ったのなら、またここへ来い。」
天狗はそう言って、惟成を見据えた。
「弟子の成長を見るのも、師匠の楽しみだからな。」
「はい。」
惟成も穏やかに笑った。
「紗世にもよろしく伝えてくれ。惟成が再び修行に来た時は、また弁当を頼む、とな。」
「伝えましょう。」
惟成は微かに笑った。
その時だった。
〈……そうだ。〉
虎徹が何かを思い出したように口を挟んだ。
〈天狗よ。この山に、蜂の蜜というものはあるか?〉
「蜂が集めている、金色っぽい、どろりとしたものか?」
〈そうだ。〉
「蜂が集めている蜜など、どうするんだ?」
今度は惟成が首を傾げる。
〈紗世が、もしあれば欲しいと言っておったのだ。儂も、それで何をしたいのかは知らん。〉
虎徹も首を傾げた。
〈紗世姫のことじゃ。蜂の蜜で、また何か美味いものを作ってくれるのではないかえ。〉
海神も興味津々といった様子で言う。
惟成、虎徹、海神の視線が天狗へ集まった。
天狗は少し考えた後、立ち上がった。
「……確か、蜂の巣がこの先にあったはずだ。」
「ならば、俺も見に行こう。」
惟成も立ち上がる。
〈お前たちだけでは、蜂に襲われて逃げ帰るだけだ。儂が蜂どもを威嚇してやろう。〉
虎徹もゆらりと起き上がった。
〈紗世姫は蜂の蜜をどうするのであろうな。〉
海神もいそいそと後に続く。
「行ってみれば分かるだろう。」
四人は山の奥へと歩き始めた。
────
「こんなものでいいか?」
惟成は蜂の巣の一部を慎重に切り取った。
〈うむ。それでよい。〉
海神が頷く。
〈巣を全部取ってしまえば、蜂が生きるのが難しくなるでな。必要な分だけにしておけ。〉
「分かりました。」
惟成は頷き、巣を包みに収める。
天狗が山を知り尽くしていたお陰で、蜂の巣は次々と見つかった。
さらに海神が水の加護を施し、蜂を刺激しないようにしてくれたため、惟成たちは必要以上に蜂を傷つけることなく、いくつかの巣から少しずつ蜜の入った部分を分けてもらうことができた。
やがて、惟成の指先に蜜が付いた。
「……甘い。」
思わず指先を舐める。
濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
惟成は目を細め、微かに笑った。
「良い土産ができたな。」
────
惟成が仮住まいへ戻ると、鼻先を香ばしく甘い香りがくすぐった。
その香りに誘われるように台盤所へ向かう。
そこには、焼き菓子を作っている紗世の姿があった。
「いい匂いだな。」
声を掛けると、紗世が振り返る。
「惟成!」
満面の笑みを浮かべた紗世は、そのまま惟成に抱きついた。
「お帰り! ありがとう!」
「何がだ?」
「虎徹と海神様から蜂蜜、受け取ったよ。」
蜂の巣を手に入れた後、虎徹と海神が一足先に仮住まいへ戻り、蜂蜜を届けてくれていたのだった。
「そうか。それで、何を作っているんだ?」
「小麦粉と卵と蜂蜜を使った焼き菓子だよ。」
紗世は楽しそうに答えた。
「母屋に虎徹と海神様がいるから、一緒に待ってて。」
「ああ。分かった。」
惟成は紗世の頭を優しく撫でると、母屋へ向かった。
母屋へ入ると、海神が恍惚とした表情で鼻をひくつかせていた。
〈はぁ……なんとも甘く、香ばしい……。良い匂いじゃ……。〉
〈この匂いだけで美味い。さすが儂の紗世だ。〉
虎徹も鼻先を上げながら言う。
惟成の眉が、ぴくりと動いた。
「『儂の』……?」
〈ん?〉
「紗世は俺のだが?」
虎徹が惟成を見る。
〈男が小さなことで目くじらを立てるな。〉
「紗世が誰のものかは、小さなことではないだろう。」
惟成は真顔で返した。
「紗世は俺のだ。」
〈ふん。妖の力をもってして、常に紗世を護っているのだ。儂にはその資格がある。〉
「紗世を護るのは俺だ。そのために天狗に弟子入りして、強くなった。」
〈強くなったとて、天狗から全てを教わったわけではあるまい。〉
虎徹は鼻を鳴らした。
〈まだまだだ。儂も紗世を護らねばならん。〉
「要らん。」
〈要る。〉
「要らん!」
〈要る!〉
「要らん!!!」
〈要る!!!!〉
「もー!」
そこへ紗世が盆を抱えてやって来た。
「何言い争ってるの? 二人とも。」
海神が惟成と虎徹を見て、呆れたように笑う。
〈ほんに、男どもはくだらぬことで争うのぅ。〉
そして紗世へ擦り寄った。
〈紗世姫、くだらぬ男どもは放っておいて、妾たちだけで紗世姫の新作を食べようぞ。〉
「別に、言い争ってなど……。」
惟成が言いかける。
〈そうだぞ。儂と惟成は、紗世を護る同志だ。〉
虎徹も取り繕う。
紗世は二人を見比べ、くすりと笑った。
「ふふ。じゃあ、皆で仲良く食べよ。」
そう言って、真ん中に焼き菓子と茶の乗った盆を置いた。
甘く香ばしい香りが、部屋いっぱいに広がる。
それぞれが焼き菓子を一つ手に取った。
サクッ。
カリッ。
「美味い。」
惟成が目を細める。
〈美味だ!〉
虎徹も満足そうに頷く。
〈~~~~っ!〉
海神は声にならない喜びを表すように、両手を上下に振った。
「甘いが、甘過ぎん。あとを引く美味さだな。」
〈このサクサクした食感も良い。〉
虎徹も次の一つへ手を伸ばす。
〈美味じゃ、美味じゃあ! 紗世姫は菓子まで作れるのか!〉
海神は嬉しそうに紗世の腕へ抱きついた。
「疲れている時には甘いものが良いんですよ。」
紗世は笑った。
「蜂蜜を取ってきてくれて、ありがとうございました。」
惟成と紗世の仮住まいに、穏やかな空気が流れていく。
やがて、紗世が惟成へ顔を向けた。
「ねえ、惟成。」
「何だ?」
「讃岐を離れる前にさ。最後にもう一度、塩江の温泉に行こうよ。」
「温泉に?」
「うん。天狗さんに、お礼のお弁当とこのお菓子も渡したいし。」
惟成は少し考えた。
「そうだな。」
そして、ふっと笑う。
「よくよく考えてみれば、前回は温泉にもゆっくり入っていられなかったからな。」
思い返せば、前回は山へ入った時から天狗の気配を感じていた。
矢を射られ、妙な気配に追われ、温泉を慌ただしく後にした。
その後には、紗世を攫われかける騒ぎまで起きた。
とても温泉を楽しむどころではなかった。
「今度こそ、ゆっくり入りたいな。」
「うん。」
紗世が嬉しそうに笑う。
こうして、二人は讃岐を発つ前に、もう一度だけ塩江の湯を訪れることになった。




