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第308話 最後の手合わせ

山の空気は、いつもより静かだった。


木々の葉を揺らす風も弱く、近くを流れる小川のせせらぎだけが、妙に鮮明に聞こえている。


その開けた場所の中央で、惟成と天狗が向かい合っていた。


二人とも刀を手にしている。


少し離れた木陰には、虎徹と海神ワダツミが並んで座っていた。


虎徹は野干の姿のまま、惟成の動きをじっと見つめている。


海神ワダツミは楽しそうに頬杖をついていた。


〈いよいよ最後の手合わせか。〉


〈ああ。〉


虎徹が静かに答える。


〈都へ戻るまで、もう幾日もないからの。〉


海神ワダツミは惟成を見つめ、目を細めた。


〈さて……どこまで強くなったかの。〉


惟成は刀を構えた。


天狗もまた、ゆっくりと刀を上げる。


「今日で最後だ。」


天狗が言った。


「お前が都へ戻るまで、もう時間がない。それまでに、お前がどこまで俺に近付いたのかを確かめておこう。」


「分かった。」


惟成は短く答えた。


以前なら、この距離を見ただけで身体が勝手に動いていた。


踏み込める。


斬れる。


そう思った瞬間には、すでに刀を振り下ろしていた。


だが、今は違う。


天狗の身体から発せられる僅かな気配。


足の向き。


肩の高さ。


呼吸の間。


その一つ一つを読む。


天狗は動かない。


惟成も動かない。


静寂だけが、二人の間に積もっていく。


「どうした。」


天狗が笑った。


「来ないのか。」


惟成は答えなかった。


以前なら、その挑発に乗っていた。


だが今は、天狗がわざと作った隙だと分かる。


視線が僅かに動いた。


右肩がほんの少し下がる。


足の重心が、僅かに変わった。


その瞬間。


惟成は踏み込んだ。


「!」


天狗の目が見開かれる。


ガァンッ!!


刀と刀が激しくぶつかった。


惟成はそのまま押し込む。


一撃。


二撃。


三撃。


以前なら、三撃目にはすでに崩されていた。


だが今は違う。


天狗の刀が返ってくる。


惟成はそれを読んで身体を捻った。


刃が衣を掠める。


そのまま半歩下がり、間合いを取り直す。


「……ほう。」


天狗が笑った。


「今のを避けたか。」


「避けたのではない。読んだ。」


「言うようになったな。」


天狗が踏み込んだ。


次の瞬間、視界から天狗の姿が消えた。


「!」


横。


惟成は反射的に刀を振る。


ガァンッ!!


間一髪だった。


天狗の刀が弾かれる。


しかし、天狗は止まらない。


刀を返し、今度は低い位置から斬り上げる。


惟成は後ろへ跳んだ。


刃が胸元を掠める。


そのまま着地した瞬間、天狗の姿が再び目の前に現れた。


「まだだ。」


「くっ……!」


惟成は刀を受けた。


衝撃で腕が痺れる。


そのまま押し込まれる。


一歩。


二歩。


三歩。


足が地面を削る。


以前なら、このまま崩されていた。


だが惟成は踏ん張った。


腰を落とす。


呼吸を整える。


丹田に意識を集める。


身体全体を一つにする。


そして。


「……っ!」


惟成は刀を横へ流した。


天狗の力を真正面から受けず、僅かに軌道を逸らす。


天狗の身体が前へ流れた。


その瞬間。


惟成は踏み込んだ。


刀を返す。


天狗の懐へ入る。


そして。


ヒュッ!!


天狗の肩口に、惟成の刀が触れた。


ほんの僅かだった。


だが。


確かに届いた。


天狗の動きが止まる。


惟成も止まった。


木陰で見ていた虎徹の耳が、ぴんと立つ。


〈……今のは。〉


海神ワダツミも目を見開いた。


〈当てたの。〉


天狗は自分の肩を見た。


衣が僅かに裂けている。


そして。


「ははっ。」


笑った。


「やったな。」


惟成は息を整えながら刀を下ろした。


「……一撃だけだ。」


「それで十分だ。」


天狗は嬉しそうだった。


「初めて俺に届いたな。」


「……ああ。」


惟成は自分の刀を見た。


手は震えている。


身体も重い。


だが、不思議と心は静かだった。


天狗は刀を納めた。


「今日のお前なら、人の中では相当なところまで行けるだろう。」


「まだ、お前には届かない。」


「当然だ。」


天狗は笑った。


「俺とお前では、生きてきた時間も、身体そのものも違う。」


そして、惟成の目を真っ直ぐに見た。


「だが、お前はもう以前の人間ではない。」


惟成は黙って天狗を見る。


「俺の動きを見て、考えて、身体を動かせるようになった。力だけではなく、相手を見るようになった。」


「……それが、お前の教えか。」


「いや。」


天狗は首を振った。


「俺が教えたのは、きっかけに過ぎん。」


その言葉に、惟成は僅かに目を細めた。


「最後に一つだけ言っておく。」


天狗の声が低くなる。


「強さを得れば得るほど、自分の力を過信するな。」


「……。」


「お前には守るものがある。」


天狗の視線が、木陰に置かれた弁当へ向いた。


「それを失わぬための強さであれ。」


惟成はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「分かった。」


その時だった。


〈惟成ー!〉


海神ワダツミが立ち上がった。


〈もう終わったのか? そろそろ弁当を食べようぞ!〉


虎徹も立ち上がる。


〈そうだ。修行が終わったのなら、紗世の弁当を食べる時間だ。〉


惟成は思わず苦笑した。


「……お前達は、最初からそれが目的だったのか。」


〈何を言う。妾はちゃんと手合わせも見ておったぞ。〉


〈儂もだ。〉


虎徹が胸を張る。


〈だが、それはそれとして弁当は食う。〉


「ははっ。」


天狗も笑った。


「まったく……お前の周りには妙な奴ばかり集まるな。」


惟成は弁当を持ち上げた。


「紗世が作ったものだ。最後くらい、皆で食べよう。」


「おお!」


天狗の顔が輝く。


海神ワダツミも嬉しそうに駆け寄ってくる。


〈待っておったぞ!〉


虎徹も尻尾を揺らしながら近付いてきた。


〈紗世の料理なら、いくらでも食える。〉


「……本当にいくらでも食べるな、お前達は。」


惟成は呆れながら弁当を開いた。


包みを解くと、山の静寂には似つかわしくないほど華やかな料理が並ぶ。


焼き魚。


肉料理。


煮物。


握り飯。


そして、瓢に入った甘露水。


それを見た瞬間、惟成の胸に紗世の顔が浮かんだ。


「……もうすぐ帰るからな。」


小さく呟く。


天狗が聞き返す。


「何か言ったか?」


「いや。」


惟成は笑った。


「ただ、都へ戻る前に、もう一度だけ紗世に飯を作ってもらいたいと思っただけだ。」


〈ならば、早く帰らねばな。〉


海神ワダツミが笑う。


〈紗世姫も待っておるぞ。〉


虎徹も頷いた。


〈そうだ。あまり待たせると、今度は儂が迎えに来ることになる。〉


「……それは困るな。」


惟成は笑いながら、空を見上げた。


木々の隙間から見える空は、夕暮れの色に染まり始めている。


讃岐で過ごす時間は、もう残り少ない。


天狗との修行も、今日で一つの区切りを迎えた。


だが。


惟成はまだ知らなかった。


この修行によって身につけたものが、都へ戻った後、自分だけではなく紗世をも巻き込む大きな戦いの中で試されることを。

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