第310話 讃岐の山に残したもの
紗世と惟成は、木漏れ日の中を馬で進んでいた。
二人の馬の背には、天狗への弁当と焼き菓子が載せられている。
「良い天気。夏で暑いけど、山に入ると少しひんやりしてて気持ち良いね。」
紗世が山の木々を見回しながら言った。
「ああ。この辺りは近くに川も流れているからな。川の冷気も流れ込んでくる。」
「ここの山は、惟成にとっては庭みたいなものじゃない?」
「そうかもな。一ヶ月足らずとはいえ、随分と山の中を駆けずり回った。」
惟成は感慨深げに木漏れ日を見上げた。
「あ、この辺りじゃない? 前に来た時、一番最初に惟成が気配を感じたのって。あの時は気のせいだと思ってたんだよね。」
紗世が特徴的な幹の木を指差した。
「後で聞いたが、やはりこの辺りから俺達を見ていたらしい。あの時は、妙に勘の鋭い人間が来たと思ったと言っていたな。」
「今は? どう? 天狗さんいる?」
「近くには居ないが……恐らく、俺達が山に入ってきたことは感じ取っているだろう。」
「え!? 近くに居ないのに、そんなことも分かっちゃうの!? 凄すぎ。」
しばらく進むと、二人は少し開けた場所へ出た。
そこには腰ほどの高さがある大岩があり、その隣には膝ほどの高さの小さな岩が並んでいた。
惟成は懐かしそうに、その二つの岩を見つめた。
そこは、かつて毎日のように惟成と天狗が座って話をしていた場所だった。
大岩に天狗が座り、小さい方に惟成が座っていた光景が、惟成の脳裏に蘇る。
惟成は馬を降り、近くの大木へ歩み寄った。
この木の下で、呼吸の仕方を教わった。
落ちてくる葉を避けろと言われた。
息が切れるまで走れと言われ、限界まで走った後は、この大木の元へ倒れ込むようにして休んだ。
惟成は大木から辺りを見回し、小さな声で呟いた。
「今までで、一番きつかったが、一番楽しい武術の修行だったな。」
今まで聞いたことのない理論。
今までにない方法。
そして、今まで出会った中で一番強い者から教わった武術。
惟成にとって、この一ヶ月足らずの日々は、これまで経験したことのない修行だった。
「紗世、馬から弁当と焼き菓子を下ろして、ここへ置いていこう。」
惟成は大岩の平らな部分に手を置いた。
「え? 天狗さんに渡さなくて良いの?」
「ああ。山へ入った俺達に気付いていても、姿を現さんということは、俺達に会うつもりはないのだろう。」
「そう……。」
紗世は少し残念そうな顔をした。
「天狗とは、そうそう人前には姿を現さん。そういうものだ。」
確かに国衙の役人達は、「あの山には天狗がいると言われている」と話していた。
だが、実際に天狗に会った者は誰もいなかった。
惟成が天狗に武術を教わっていると聞いて、誰もが驚いていた。
日常的に天狗と会っていた惟成の方が、むしろ珍しいのだ。
「ここに弁当を置いて去れば、すぐに師匠が来て持っていくだろう。置いていっても大丈夫だ。」
そう言いながら、惟成は弁当と焼き菓子を大岩の上に置いた。
「よし。紗世。温泉へ行こう。」
「うん。」
二人は馬に跨り、腹を軽く蹴った。
馬が歩みを進め始める。
しばらくして、後方の大岩の方から強い風が吹いた。
「わっ……すごい風……。」
紗世が髪を押さえた。
惟成の口元が緩む。
「……来たな。」
「え?」
「師匠だ。」
慌てて紗世が大岩の方を振り返る。
先程まで置かれていた弁当と焼き菓子の包みは、跡形もなく消えていた。
────
「……っふ〜〜。気持ちいー。極楽極楽。」
湯帷子を着た紗世は、肩まで温泉に浸かっていた。
「ここ、修行の時によく使ってたの?」
人目のつかない場所に湯が堰き止められ、広めの浴場のようになっている。
「ああ。修行が始まったばかりの頃に作ったんだ。毎日、血と汗と泥と砂まみれだったからな。温泉に浸かりながら洗濯しなければ、着るものも無くてな。」
「そ……そう……。あ、でも、毎日温泉で少しは疲れも取れたんじゃない!?」
「そうだな……。擦り傷、切り傷だらけで、温泉が傷にしみてな。痛みに耐えながら浸かっていたから……疲れが取れた気は、あまりしなかったな。」
惟成は遠い目をした。
「そ、そっか……。」
紗世は、なんと声を掛ければいいのか分からず、湯帷子の端を指先で弄っていた。
その時――
惟成が紗世の背後へ回り、そっと抱き締めた。
「まあ……今は癒されるし、疲れは取れそうだ。」
「うん。」
紗世は首元に回された惟成の腕を、愛おしそうに掴んだ。
静かな山奥。
鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
涼しい風が木々を揺らし、爽やかな匂いを運んでくる。
「……ねえ、惟成。」
「ん?」
「都に戻ったら……まずは何がしたい?」
「都に戻ったら、か……。したい訳ではないが、しなければならないことはあるな。」
「しなきゃいけないこと? 何?」
「藤原検非違使尉様に……全力で詫びを入れねばな。」
「あ……。」
紗世は、すっかり忘れていた。
父を騙して、讃岐に居座ったことを。
「で、でも、惟成が私を讃岐に引き止めた訳じゃないんだし……。」
「そうかもしれんが、紗世の元へ三夜通いする手前、そこら辺はきちんとした方が今後のためにもいいだろ。うやむやにしたままだと、三夜通いを妨害されかねん。」
紗世は父の大人気ない性格を思い出し、頭を抱えた。
そんな紗世を横目に、惟成は続ける。
「だから、都に帰ったらまずは検非違使尉様に詫びを入れに行くだろ。そしたら、すぐにでも三夜通いを始めよう。」
惟成は紗世の顔を覗き込んだ。
「……うん。」
「そしたら……紗世、子供は何人欲しい?」
「え!? こ……子供!?」
「もし、たくさん欲しいというのなら、すぐに子作りをしないとな。」
紗世は顔を赤らめた。
「………二人は絶対欲しい。できれば、男の子と女の子、両方欲しい……。」
惟成は、いつぞやに見た夢を思い出した。
紗世と男女の双子を囲み、幸せに暮らす光景が脳裏に蘇る。
「それは……叶うんじゃないか。」
「そうだといいな。」
穏やかに笑う紗世を、惟成は愛おしそうに抱き締めた。
抱き締められる腕の強さが心地良かった。
紗世は惟成の腕に、そっと口付けを落とした。
惟成はその仕草に微笑み、紗世の髪を撫でる。
「紗世。」
「ん?」
「讃岐を離れる前に、こうして二人でゆっくり過ごせて良かったな。」
「うん。私も。」
紗世は惟成の胸に頬を寄せた。
二人はしばらく何も言わず、静かな山の空気に身を委ねていた。
しかし――。
「……あれ?」
紗世が僅かに眉を寄せた。
「どうした?」
「なんか……頭がぼーっとする。」
「湯に浸かりすぎたか?」
「うん……たぶん……。」
惟成が紗世の顔を覗き込む。
頬がほんのり赤くなっている。
「少し休もう。湯から出た方がいい。」
「うん……。」
紗世が立ち上がろうとした瞬間、ふらりと体が揺れた。
「危ない。」
惟成がすぐに支える。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……。ちょっと立ちくらみしただけ……。」
「顔が赤いぞ。」
「温泉に入ってるからでしょ。」
「それだけではなさそうだが。」
惟成は紗世を支えながら、ゆっくりと湯から上がらせた。
「ほら。少し座っていろ。」
「うん……。」
岩に腰を下ろした紗世は、惟成の肩に頭を預けた。
「……気持ちいい。」
「何がだ?」
「惟成がいるから。」
「そうか。」
惟成は小さく笑い、紗世の頭を撫でた。
「でも、のぼせるほど長く入るのは駄目だな。」
「だって……気持ち良かったんだもん。」
紗世は少しだけ頬を膨らませた。
「それに、讃岐を離れたら、もうしばらくここには来られないでしょ?」
「ああ。」
「だから……もう少しだけ、ここにいたかったの。」
その言葉に、惟成は黙って紗世を抱き寄せた。
「また来ればいい。」
「……うん。」
「次に来る時は、今よりもっと強くなっているかもしれんな。」
「じゃあ、私ももっと料理上手になっておく。」
「それは楽しみだ。」
二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
夏の山には、涼しい風が吹いている。
木々の葉が擦れ合う音。
遠くで鳴く鳥の声。
そして、二人の小さな笑い声。
讃岐で過ごした日々も、もうすぐ終わる。
それでも惟成には、ここで得たものが確かに残っていた。
天狗から授かった武。
紗世と過ごした時間。
そして、これから二人で歩んでいく未来。
惟成は紗世の肩を抱きながら、静かに山を見つめた。
「……帰るか。」
「うん。」
二人はゆっくりと立ち上がり、馬の待つ場所へと歩き出した。
そうして塩江の山を下りる二人を木の上から見ていた天狗は穏やかに微笑んだ。




