第291話 【番外編①】讃岐の海で、君と
市で初めて開かれたうどんの店は大繁盛していた。
「追捕使様、紗吉殿、大伴様、交代します!」
製麺所から追加のうどんを運んできた藤吉郎が声を掛けた。
「せっかくだし、市を見て回ってきたらどうだ?」
「え!? いいの!?」
紗世の顔が、ぱあっと明るくなる。
「追捕使様も、紗吉と二人でゆっくりしたいだろう?」
黒鷲が、にやにやしながら言った。
「そうですな。源様、紗吉殿と讃岐の市を楽しんできたらよろしい。夕方の海辺も綺麗ですぞ。」
大伴も同意する。
こうして、紗世と惟成は二人で市を見て回ることになった。
「紗世、一度着替えに戻ろう。」
「え? このままでよくない?」
「俺はいいが……お前は着替えろ。せめて庶民の女の格好をしろ。」
「え?」
「市には『都の姫は水干姿でうどんを売っている』という噂が広まっている。ゆっくり見て回りたいなら、水干姿はやめた方がいい。」
「あ、そっか。」
紗世は納得し、二人は一度仮住まいの邸へ戻った。
紗世は市女笠ではなく、庶民が着るような質素な衣へと着替える。
惟成もまた、庶民の装いのままだった。
「ほら、惟成。早く行こ!」
紗世は満面の笑みで惟成の手を引いた。
「……ああ。」
惟成は小さく息を吐きながら、その後をついて行った。
───市
「惟成! 焼き魚あるよ! あ、蒸した芋もある!!」
紗世はきょろきょろと辺りを見回しながら、楽しそうに歩いている。
「あまりちょろちょろするな。はぐれるぞ。」
惟成は紗世の肩を抱き寄せた。
「ねえ、何か買おうよ! 何か食べる?」
「その手に持っているものは何だ。既に買っているだろう。」
惟成が指差したのは、紗世が手にしている焼き魚だった。
「えへへ。美味しいー。」
紗世は嬉しそうに焼き魚を頬張る。
「紗世、顔に魚の身が付いているぞ。」
「え? どこ? 取って。」
「……ほら。」
惟成が指で取ってやる。
そんな二人を見て、後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。
近所の女衆らしい。
「微笑ましいねぇ。」
「夫婦になるんじゃないのかい?」
「ほら、お兄さん。恋人に何か贈り物でも買ってやんなきゃあ。」
女衆は言いたいことを言うと、そのまま通り過ぎていった。
「なんか……新鮮だな。」
惟成がぽつりと呟いた。
「新鮮?」
「ああ。都にいる時は、こうして並んで歩くことなど滅多になかっただろう。」
都に戻れば、惟成は兵衛尉という身分にあり、紗世もまた検非違使尉の娘である。
身分ある男女が、こうして人目のある往来を並んで歩くことはほとんどない。
女は牛車に乗り、姿を人目に晒すことも避ける。
こうして二人が庶民の装いで並んで歩き、買い物をしながら食べ歩きをする。
それは、讃岐だからこそできることだった。
「……うん。そうだね。」
紗世も嬉しそうに笑う。
「私も新鮮だし、嬉しい!」
「さて。魚も食ったし、次へ行こう。」
「次? どこ行くの?」
「今、女衆が言っていただろう?」
惟成は少しだけ笑った。
「俺は恋人に何か贈り物を買ってやらねばならんらしい。贈り物を選びに行くぞ。」
「えっ、本当!?」
惟成は紗世の手を引いて歩き出す。
「紗世、何が見たい?」
「えっとね……小間物屋さん、見たい!!」
───小間物屋
「あー! この布の色、きれーい!!」
紗世が目を止めたのは、海を思わせる青みがかった緑の布だった。
「お、お姉さん。良いのを見つけたね。その色は染めても、なかなか綺麗に出ないんだよ。」
「しかし、綺麗な色でも、これほど小さくては縛り紐くらいにしか使えないのではないか?」
「ふっふっふ……惟成様、私の特技をお忘れですか?」
紗世は得意げに惟成を見る。
「おじさん。この櫛、ちょっと借りていいですか?」
「ああ、構わないよ。」
紗世は大きめの歯を持つ櫛を手に取る。
そして、その歯の間に布を巻き付け、最後に蝶々結びを作った。
こめかみから上の髪をまとめ上げ、くるくると器用に巻いていく。
最後に、飾り布を巻いた櫛を差し込んだ。
ハーフアップにまとめた髪から、青緑の布が揺れる。
「どう? 惟成。可愛い?」
紗世がくるりと向きを変えて見せる。
「……ああ。可愛――」
惟成が言い終えるより先に、周囲から声が上がった。
「おお! お姉さん、器用だねぇ!」
「えー!? 可愛い! それ、どうやるんですか?」
「簡単ですよ。櫛と、自分の好きな布があれば――」
紗世は教えを乞うてきた若い娘の背後へ回る。
髪を手際よくまとめ、同じように布を結んでいく。
「可愛いー!」
「櫛と布だけでこんな髪型になるの!?」
「こんな髪型、初めて見た! 私もやって!」
気付けば、紗世の周りには人だかりができていた。
───
「簡単ですから、皆さんも家でやってみてくださいね。」
紗世の即席の髪結い教室が終わる頃には、小間物屋の布や櫛はほとんど売り切れていた。
「いやあ! お姉さん、こんなに売れたのは初めてだよ!」
店主はほくほく顔だった。
「今は海神様の加護を受けたお姫様が話題だけどさ、俺にとっちゃ、お姉さんもお姫様みたいなもんだ!」
「え?」
「ありがとうよ!」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
紗世と惟成は一瞬顔を見合わせる。
そして、二人とも笑った。
「あっという間に時間が経っちゃったね。」
「ああ。」
惟成は空を見上げた。
「……最後、少し海辺へ行ってみるか。大伴が夕方の海は綺麗だと言っていたしな。」
「うん!」
───海辺
海辺は静かだった。
波の音と、海鳥の声だけが聞こえる。
惟成が紗世の手を引きながら、岩場を慎重に下りていく。
やがて二人は、大きな岩に囲まれ、周囲から見えにくい場所へ腰を下ろした。
「ここなら、人々にも見つかりにくいだろう。」
「私も惟成も、讃岐では結構顔を知られちゃったね。」
「お前が、貴族の姫として顔を隠すという当然のことをしていないからな。」
「……言わないで。」
惟成は小さく笑った。
二人はしばらく、静かな海を眺めた。
「海……綺麗だね。」
「ああ。都では海は見られないからな。」
紗世は、遠くの水平線を見つめながらぽつりと言った。
「……私、最初は讃岐の国を恨んだの。」
「え?」
「讃岐に海賊なんているから、惟成が追捕使として派遣されちゃったんだって。」
紗世は苦笑する。
「馬に乗る練習だって、最初は楽しんでやってたわけじゃなかった。お尻も手のひらも内腿も痛くて……でも、惟成に会うためには必要なんだって思って、耐えたの。」
「…………」
「讃岐に着いてからも、最初はとにかく早く惟成が追捕使の仕事から解放されて、都に帰ることばかり考えてた。」
紗世は小さく笑う。
「……でもね」
顔を上げる。
「讃岐では、都じゃ絶対にできないことがいっぱいできた!」
「そうだな。」
「惟成と一緒の部屋で寝て、惟成のご飯を毎回私が作って、惟成のお仕事について行って……楽しかった!」
「俺も楽しかった。」
「何より、二人きりで生活するなんて、都にいたら絶対できなかったもん。」
紗世は少し照れながら笑った。
「どうしたって女房や使用人はいるし。でも讃岐では、本当に二人きりで、人目を気にせず一緒にいられた。」
「ああ。」
「讃岐に来て良かった。」
紗世は海を見つめた。
「たくさんの人と出会って、うどんを作って、それが皆の役に立って……すごく充実してた。」
そして、少しだけ寂しそうに笑う。
「絶対に忘れないよ……。」
「俺も、讃岐は絶対に忘れない。」
惟成も静かに海を見る。
「武官として、一生ものの経験を積ませてもらった。それに――」
惟成は紗世の頬に手を添えた。
「妻と初めて契りを結んだ土地でもある。」
「……うん。」
二人の唇が、ゆっくりと重なる。
少しだけ離れ、また重なる。
今度は長く、深く――。
「…………ん?」
紗世は、ふと違和感を覚えた。
(……キス、長くない?)
体が、少しずつ後ろへ傾いていく。
(んん!?)
紗世が唇を離そうとする。
「ね……惟成……ちょ――」
再び唇を塞がれた。
「ん……っ」
そのまま、紗世の背中が岩場へ触れる。
「こ、惟成! ここ! 外! 人! 人が来るかも!!」
「そこの大きな岩で、ここは外から見えにくい。」
「そういう問題じゃ――」
惟成は止まらない。
「ひゃっ……」
「……っ、やっ……ちょっ……!」
「やぁんっ……!」
――しばし静寂。
…………ドカッ!!!
「調子に乗るな!!!」
紗世の蹴りが、惟成の腹に炸裂した。
「ぐっ……!」
「もう……っ! ほら! 製麺所に行かなきゃ!!」
衣の合わせを整えながら、紗世は立ち上がる。
そして、小さな声で呟いた。
「…………するなら、帰ってからがいい。」
耳まで真っ赤だった。
惟成は腹を押さえながら、小さく笑う。
「帰ってからなら、思う存分していいと?」
「ばかっ! 今日は疲れてるんだから、そんなにできるわけないでしょ!」
「それだけ元気があれば大丈夫だろう。」
「筋肉おばけ、体力おばけの惟成と一緒にしないで!!」
夕暮れの海辺に、二人の声が響いていた。
その思い出は、二人の心に深く残ることになる。




