第290話 姫君、市に立つ
「そうだぞ。お姫様なら市女笠を被っているから、すぐ分かる。」
「追捕使様だって、都の貴族だ。上等な衣を着ているさ。」
紗世は水干姿、惟成は紗世から「手伝うなら狩衣じゃなくて、汚れてもいいやつにして!」と言われ、庶民の直垂に着替えていた。大伴も同じだった。
三人とも、服装だけを見れば庶民と間違えてもおかしくはない。
「え? や、だって……。」
とよの父は、おろおろと紗世や惟成を見比べた。
すると、とよが父の手から離れ、紗世のもとへ歩み寄っていく。
「きゃー。とよちゃん、可愛い!」
紗世は嬉しそうにとよを抱き上げた。
それを見て、とよの父が声を上げる。
「や、やっぱり、お姫様だ! うちのとよは分かってんだ! 助けてくれた人だって。でなきゃ、他人に近付くなんてできねえ、人見知りなんだ。」
周囲の人々は、きゃっきゃと、とよと戯れる紗世を見つめた。
惟成は小さく息を吐いた。
「その者の言っていることは本当だ。私も姫も、市で動きやすいよう衣を替えてきたのだ。」
静寂が落ちた。
「とよちゃん、髪さらさらー。後で可愛く髪結ってあげるー。」
静まり返った中で、紗世の能天気な声だけが響く。
そして――。
「う、うわあああああああああ!!!」
「お、お、お、お姫様ああああああ!!!」
「海神様の加護を受けられたお姫様だああああ!!!」
その場にいた者たちが、次々と平伏した。
「え!!? いや! あの! 皆、立って!?」
紗世は慌てふためく。
「海神様の加護を受けられたお方だぁ。ありがてぇ……。」
「讃岐を救ってくださったぁ……。」
「いや! 普通の人間だから! 拝まないで!?」
そこへ、製麺所から追加のうどんを運んできた黒鷲たちが、市の通りを平伏す人々で埋め尽くされた光景を目にした。
「な、なんだこれは!? 何があった?」
「だ、旦那! とりあえず、俺らも平伏しましょう!!」
「そうだな!!」
黒鷲たちも慌てて平伏し、何が何だか分からない状況になっていく。
「違うから! 黒のおにーさん! 私だから!! 皆、立ってええええ!!!」
「だーーっははははは!!!」
ついに大伴が堪えきれず、盛大に笑い出した。
惟成は行列の最前列にいた庶民たちの肩を、順番に叩いていく。
「頼むから、立ってくれ。」
「うどんを食べに来たのだろう?」
惟成に声を掛けられ、ようやく人々が少しずつ立ち上がっていく。
やがて行列は元の形へ戻り、再び流れ始めた。
しかし、庶民たちの興奮は冷めない。
「お、お姫様から直接いただけるなんてぇ……。このうどん、家宝にしますぅ……。」
「うん。食べて。傷んじゃうから。」
「追捕使様に触ってもらった、この器……洗わずに取っておきます!」
「洗え。」
大伴は、隣で繰り広げられるやり取りに、終始肩を震わせていた。
時には堪えきれず、大笑いするほどだった。
───
市は、大盛況のうちに終わった。
「お前、お姫様見たか?」
「見た見た! まさか、あんな格好をしてるなんて思わないだろ。」
「うどん売っててさぁ、『こぼさないでね』とか、『ありがとうございます』とか……優しかったなぁ。」
「追捕使様も格好良かったねぇ。凛としたお顔立ちで。」
「追捕使様は都で一番の腕なんだってよ。めちゃくちゃ強いらしい。」
「お二人とも都の貴族なんだろ? ……讃岐を出ていってしまうのかぁ。」
讃岐中が、紗世と惟成の話で持ちきりになっていた。
───製麺所
製麺所の床には、ぐったりと寝転がる男たちで埋め尽くされていた。
「………終わったぁ……。」
「腕が痛ぇ……。」
「俺は腰だ……。」
「俺なんか、このクソ暑いのに煮立った鍋の前に立ち続けたんだぞ?」
誰もが疲れ果て、起き上がる気力すら残っていない。
すると――。
製麺所の戸が勢いよく開かれた。
バァン!!!
「皆さん! お疲れ様でしたーー!!」
紗世と惟成、それに数人の者たちが、いくつかの木箱を抱えて入ってきた。
「ぉお……紗吉……。」
製麺所の者たちは、疲れのあまり寝転がったまま返事をするのが精一杯だった。
「屍累々だな……。」
惟成が床に転がる男たちを見回して言う。
そんな状況にも構わず、紗世は話を始めた。
「今日の市は、ここのうどんが出るということで、今までにないほどの人出だったそうです!! すごーーい!!」
「……ああ……そぅ……。」
紗世が一人でぱちぱちと拍手する。
「そして、今日、市で最も売れたのは、ここのうどんだったそうです!! これもすごーーい!!」
「どぉりで忙しかったわけだ……。」
「もーー! 皆、もっと喜んでよ!」
「喜んでる喜んでる。すごいー。」
男たちは、床に伏せたまま棒読みで返した。
すると、紗世の後ろから惟成の声が掛かった。
「紗世。お前は間違えている。」
「え? 何を?」
「こいつらを起こしたいなら、別の話題だ。」
「別の?」
紗世が首を傾げる。
惟成は男たちの前に立った。
そして――。
「今から、お前たちへ報酬を配る!!!」
ザザザザザッ……!!!
製麺所の男たちが、一斉に起き上がった。
「今回の市では、払い方が金と品物の二種類あった。よって、報酬も金と品物で払う!」
「うおおおお! 金ではどれくらいもらえるんだ!?」
「品物は食いもんか!?」
惟成は隣にいた三宅に目配せした。
三宅が木箱を持ち上げる。
紗世が、その中から小さな袋を取り出して見せた。
「まずは金だ。一人一袋ずつ受け取れ。」
惟成の声に、男たちは列に並び、一人ずつ袋を受け取っていく。
「え! 今日一日だけだったのに、こんなにくれるのか!?」
「頑張った甲斐があったぜぇ〜!」
そして、次に品物が配られ始めた。
「この大きな木箱に入っている物は一人五つ。中くらいの木箱の物は三つ。一番小さい木箱の物は一つだ。大中小、どの木箱から選ぶかは、自分たちで決めろ。」
木箱に男たちが群がる。
その様子を見届けた惟成は、少し離れた場所に立っていた黒鷲へ近付いていった。
「黒鷲は選ばんのか?」
黒鷲は木箱を眺めながら、静かに答えた。
「生きるためとはいえ……こいつらを一時でも海賊にしちまったからな……。儂は残ったものでいい。」
「そうか……。」
惟成はそう言うと、懐へ手を入れた。
「俺も今日、うどんを品物と交換で買ったんだが、手持ちの品物が限られていてな。これしかなかった。」
惟成の手のひらには、小さな紙包みが乗っていた。
「………っ、これっ……!!」
黒鷲は目を見開いた。
惟成が持っていたのは、黒鷲の妻の病に効くという薬だった。
「薬だからな。必要とする者は限られてしまう。あの木箱へ入れても、最後まで残るだろうな。」
惟成は、黒鷲へゆっくりと差し出した。
「ご苦労だった。」
黒鷲は深々と頭を下げ、差し出された薬を両手で受け取った。




