第289話 讃岐の市、姫君を待つ
───市の日・早朝
その日は朝から、多くの人々が忙しなく動いていた。
「なんだぁ? 今日はやけに人が多いな。」
野菜籠を抱えた男が、市の様子を見回して言った。
「いつもより見世が多いらしい。市っていうより……祭りみてぇだな。」
「今日は、噂の食べ物……うどん、とかいうやつが出るらしい。それと、そのうどんを作った、海神様の加護を受けた都のお姫様も来るかもしれねぇってんで、讃岐中の人が集まるんじゃないかってよ。」
「本当か!? なら、今日はもっと売り物を用意しねぇと!」
「俺もだ! 工房に戻って、ありったけの小間物を持ってくるわ!」
時間が経つにつれ、市はどんどん賑やかになっていった。
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「紗世……本当に紗吉の姿で行くのか?」
惟成が呆れた顔で言った。
「もちろんだよ!」
水干姿で髪を高めに結い上げながら、紗世は答えた。
「和気の姫君から外出用の衣と市女笠も貰ったんだろう?」
「そうだけど、市は人出が多いし、綺麗な衣を着ていったら汚しちゃうし、市女笠は周りが見にくいし、笠が人にぶつかるし……今日に限っては邪魔になっちゃうの!」
「……邪魔って……。」
(貴族の装いを邪魔と言う、将来の妻……)
惟成は、もはや諦めの表情だった。
「ほら、惟成。早く行こ!」
紗世は満面の笑みで惟成の手を引っ張り、駆け出した。
「……ああ。」
惟成は小さく息を吐き、紗世の後を追った。
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その見世の前には、長蛇の列ができていた。
「二列に並んでくださーい!」
「うどんを受け取ったら、こっちから列を外れてくれー!」
「うどんの値段はこれだー! 銭がなけりゃ、野菜や他の物と交換でもいいぞー!」
「こっちに座れる場所を用意している! 子供や年寄りは座って食えー!」
列の周辺では、数人の製麺所の者たちが汗だくになりながら声を張り上げていた。
「うめぇ! なんだこりゃ!」
「冷たくて、するする入るな!」
「食べ応えがあって、腹も膨れる!」
「美味いし、米より安いし、最高だな!」
「もう一回、列に並ぶか!?」
うどんを食べた客たちの感嘆の声が上がるたび、さらに行列は伸びていった。
うどんの見世では、客が持参した器にうどんと薬味を盛り、付け汁をうどんに回しかけて渡す、ぶっかけうどん方式を取っていた。
紗世が、うどんを打って茹でる工程と、薬味や付け汁を作る作業を製麺所で済ませ、見世では最小限の盛り付けだけにしようと提案したのだ。
その案が採用されたことで、販売は驚くほど円滑に進んでいた。
「紗吉の言う通り、見世ではこの作業だけで助かったな。」
弥助が、隣の航太に言った。
「ええ。この行列じゃあ、これ以上の作業をしてたら回らないっすね。」
「年寄りにゃあ、これだけでも大変だぁ~。」
源八がおどけたように言う。
すると――。
「追加のうどん、持ってきましたぁ!」
「交代しよう。休憩してきてくれ。」
「製麺所に飯が用意してある。それを食って来い!」
三人の後ろから声がした。
「お! 休憩か!! ありがてぇ……って……」
三人は目を丸くした。
そこに立っていたのは、紗世、惟成、大伴だった。
「は? え? 紗き……追捕使様に、大と……」
紗世は人差し指を口元に当て、いたずらっ子のように笑った。
「ほれ! 行った行った! 休んでこい!」
大伴は三人の背中を叩き、休憩へと促した。
そして紗世が、大きく声を張り上げる。
「はーい、お待たせしましたぁ! 器ください!」
「交換物は瓜か。なら、瓜二つと交換だ。」
「おい、後ろに人がいるぞ。ぶつかってこぼすなよ。」
行列が再び動き出した。
しばらくすると、市全体がざわつき始めた。
「なんだ?」
惟成が片眉を上げる。
すると、目の前の客が教えてくれた。
「多分、市のどこかに牛車でも停まったんじゃないか?」
「牛車が停まった程度で、こんなにざわつくか?」
「今日は海神様の加護を受けたお姫様が来るかもしれねぇってんで、牛車が停まるたびに、お姫様かもって見ちゃうんだよ。」
「そうそう! 今日の市は、ここのうどんだけじゃなくて、海神様の加護を受けたお姫様を見られるかもしれねぇってことで、出てきてる人が多いんだよ!」
行列に並んでいる、子供を抱いた女が言った。
「海神様の加護を受けたのは、お姫様だけじゃなくて、都から来ている追捕使様もなんだろ?」
「そうなんだよ! しかも、その追捕使様、若くて格好良いって評判で……讃岐の女たちが、一目でいいから見たいって言ってるよ!」
「ダメだダメだ! 追捕使様は、そのお姫様と夫婦同然って話だぞ。お前らなんか相手にされん!」
行列に並ぶ民たちは、好き放題に言い合い始めた。
大伴が横を向き、肩を震わせている。
「………大伴。何を笑ってる?」
「いや、姫君と追捕使様は人気だな、と。くくく……。」
「笑い事ではない。」
惟成が低く言う。
「これは面白い。まさか、こんなに話題になるとは……。」
大伴は堪えきれない様子で、さらに肩を震わせた。
やがて、ざわつきがおさまってきた。
「あ~……牛車には、お姫様は乗ってなかったみたいだね。」
「本当にお姫様、市に来るのかなぁ?」
「気さくでお優しいって言っても、都のお姫様だしねぇ。勝手に期待しちゃってるだけかもね。」
そんな声が聞こえてくる。
すると紗世は、行列に並ぶ一組の父娘に目を止めた。
「あ、あれ、とよちゃんじゃない?」
惟成の袖を引く。
「そうだな。父娘で食べに来たんだろう。」
「とよちゃん。とよちゃーーーん!」
紗世が手をぶんぶんと振った。
父親に抱かれたとよが、それに気付いて小さく手を振り返す。
「とよ? 何に手を振って……」
父親が、とよの視線の先へ顔を向けた。
そして――目を見開いた。
「あ………あ…………!! つ、つ、つ、つつつつつ……追捕使様に……お、お、お、お、お姫様ああああああ!!!!」
市が、水を打ったように静まり返った。
男は、その場で跪いた。
「娘を助けていただき、本当にありがとうございました!!!」
「お、おい、お前。誰に向かって言ってるんだよ? お姫様と追捕使様みたいな貴族、ここにいないぞ?」
隣に並んでいた男が、不思議そうに声を掛けた。




