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第292話 【番外編②】神よりも気高きもの

今日、惟成は和気経房に呼び出され、邸を留守にしていた。


紗世は惟成の衣のほつれたところを繕ったり、洗濯をしたりしながら、のんびりと過ごしていた。


(惟成、帰ってくるの何刻くらいかな? 夕餉は要るよね?)


ちくちくと針を運びながら、そんなことを考えていた時だった。


〈紗世姫。〉


「……ん?」


紗世は針を止めた。


誰かに呼ばれたような気がした。


しかし、邸には自分しかいない。


〈紗世姫よ。〉


「……んん!?」


紗世は辺りを見回した。


〈ここじゃ。ここにおる!〉


声のする方へ目を向ける。


すると、天井近くの梁の影から、白い蛇がするすると降りてきた。


「え!? 海神ワダツミ様!?」


〈そうじゃ。妾じゃ。〉


白蛇は、ちょこんと紗世の目の前に陣取った。


「どうされたのですか? 何かあったんですか?」


紗世は慌てて針と生地を置いた。


〈別に用事というほどのことではないのだがな。ちぃと聞きたいことがあっての。〉


「聞きたいこと?」


紗世は姿勢を正した。


「何でございましょう?」


〈ふむ……その……なんだ。野干……虎徹についてじゃ。〉


「虎徹?」


紗世は首を傾げた。


すると海神ワダツミは、白蛇の姿から女神の姿へと変わり、こほん、と咳払いをした。


〈その……虎徹の周りに、よく現れる獣や生き物がおったりせぬか?〉


「虎徹の周りによくいる動物……?」


紗世は考え込んだ。


「特に……いないと思いますけど。」


〈そ、そうか! ならば良いのじゃ!〉


「……?」


紗世は海神ワダツミをじっと見た。


そして、ふと閃いた。


「神様方って、獣や動物に姿を変えて現れることが多いんですか?」


〈まあ、そうだな。本来の姿を晒せば、人間どもは大騒ぎするでな。人間が見慣れた動物に姿を変えることが多い。〉


「それで虎徹は猫、海神ワダツミ様は白蛇なんですね。」


〈うむ。〉


「じゃあ……普段見慣れている動物に姿を変えるなら、もし虎徹が鼠と一緒にいたら、もしかしてその鼠が神様だったり……?」


〈なに!? 鼠!? 鼠が虎徹の傍によく現れるのか!?〉


「い、いえ! 例え話です! 鼠が虎徹の傍によくいるわけじゃありません!」


紗世は慌てて両手を振った。


「あの……海神ワダツミ様。」


〈なんじゃ?〉


「もしかして……海神ワダツミ様は、虎徹のことがお好きなんですか?」


紗世は伺うように尋ねた。


海神ワダツミは、ぴたりと動きを止めた。


〈好き……という感情が、どういったものなのか……妾には、いまいちよく分からんのだが……。〉


「そこから!?」


紗世は思わず声を上げた。


「えーっとですねぇ……。まず、いつもその人のことを考えてしまうとか。」


〈ふむ……よく考えておるな。〉


「その人の姿を見つけたら、傍に寄っていきたくなるとか。」


〈すぐ傍に行きたくなるな。〉


「傍にいたら、触りたくなるとか。」


〈ふむ。触りたくなるな。特に虎徹のあの毛並みは触りたくなる。〉


「あと……自分以外の異性が、その人の傍にいたら嫌な気持ちになるとか。」


〈嫌な気持ちはないな。〉


「ないんですか?」


〈殺したくなるだけじゃ。〉


「あ、はい。」


紗世は少し考えた。


「分かりました。海神ワダツミ様は虎徹のことが好きなんだと思います。」


〈やはり、そうか……。〉


海神ワダツミはしみじみと呟いた。


〈しかし、虎徹は妾を見ると、すぐ逃げてしまうのじゃ。〉


海神ワダツミ様。」


〈なんじゃ?〉


「なぜ、そんなに虎徹のことがお好きなんですか?」


紗世は首を傾げた。


「虎徹は妖で、海神ワダツミ様は神様ですよね?」


〈確かに、妖と神は違う。〉


海神ワダツミは静かに目を伏せた。


〈しかし妾は……神々の在り方に、ほとほとうんざりしたのじゃ。〉


「何か……あったんですか?」


海神ワダツミは、遠くを見るような目をした。


そして、ゆっくりと語り始めた。




───およそ二百五十年前


海神ワダツミよ。近頃、人間どもの祈りや供物が少なくなったと思わぬか!?」


「なんじゃ、火神ホノカグツチよ。突然何を言い出す?」


「我らの加護によって生きておるというのに、感謝が足りぬ!」


「ふん。加護だなんだと言うても、我らが毎日、人間どもの暮らしを支えているわけでもあるまい。人間どもが我らを侮辱したり、軽んじたりしておらぬのなら、放っておけばよい。」


海神ワダツミがそう言うと、火神ホノカグツチは不満そうに鼻を鳴らした。


「甘いぞ、海神ワダツミ! 山神ヤマツミよ、そなたはどう思う!?」


「ふふ。火神ホノカグツチは、人間どもの祈りや供物が、海神ワダツミや私より少ないのが悔しいのであろう?」


「そ、そういうことではない!」


火神ホノカグツチは顔を赤くした。


「昔は、自然の恩恵を受けるための供物や、天災を鎮めるための生贄を、我らに捧げていたではないか! それが少なくなったということは、我ら神々を畏れておらぬということだ! これは由々しき問題ぞ!」


「ならば、火神ホノカグツチよ。」


背後から声がした。


山神ヤマツミと共に大地を揺らし、噴煙でも上げればよい。その際に神託でも下して、『供物を捧げよ』『生贄を捧げよ』と言えば、人間どもも神の力を思い知るであろう。一度、痛い目を見せればよいのだ。」


風神シナツヒコが、涼しい顔で現れた。


「大地が揺れ、山が怒れば、人間どもも我らの力を思い出すであろう。」


「なるほど!」


火神ホノカグツチは目を輝かせた。


山神ヤマツミよ、早速大地を揺らしに行こうぞ!」


「まあ、人間どもに畏れられるのも悪くないな。たまには神々の力を見せるのも一興だ。」


そう言って、火神ホノカグツチ山神ヤマツミは連れ立って去っていった。


火神ホノカグツチは単純で、山神ヤマツミはその場のノリじゃな……。」


海神ワダツミは呆れたように呟いた。


その後、日本の各地で火山の噴火や大地震が相次いだ。


大地は裂け、マグマが溢れ、噴煙が長く空を覆った。


作物は枯れ、動物たちは死に、人々は飢えに苦しんだ。


「おい! 火神ホノカグツチ! 山神ヤマツミよ! やり過ぎではないか!?」


海神ワダツミは二柱に詰め寄った。


「人間どもが我らに十分な供物や生贄を捧げればよいのだ。」


火神ホノカグツチは悪びれもせず答えた。


「供物や生贄が多いところから、この災いを収めてやればよい。」


「馬鹿者!」


海神ワダツミは怒鳴った。


「その供物や生贄となる人間がお前たちのせいで減っているのだぞ! 食べる物がなければ、人は生きていけぬ! 自分が食べる物すらないのに、供物など出せるわけがなかろう!」


「ふん。そんなこと、知ったことか。」


火神ホノカグツチはそっぽを向いた。


「そもそも、人間どもが我らを軽んじたのが悪いのだ。人間は我らを敬い、畏れながら生きていくものだ。」


山神ヤマツミも腕を組んで吐き捨てるように言った。


海神ワダツミは拳を握りしめた。


「……そなたらの考えは分かった。」


低い声だった。


「だが、妾はその考えが好かぬ!」


そして、二柱を睨みつける。


「妾は人間達に、海の恵みをもたらしに行く!」


そう言って、海神ワダツミはその場を去り、地上へ降りた。




───しかし、途方に暮れていた。


(自然の恵みというものは、すべて繋がっておる……。妾一人が海の恵みを与えたところで、どうにもならぬ。)


海には魚がいる。


しかし、魚を獲るための道具も、人々の気力も体力も失われている。


海から採れる塩も、そのままでは使いにくい。


(妾には……何ができる?)


海神ワダツミが海辺を見渡していると、やせ細った母子が目に入った。


どうやら魚を獲ろうとしているらしい。


母親の手には、破れた網があった。


(あの網では魚は獲れまい。それに、あのようにやせ細っていては……魚を捕らえても、逃げられてしまう。)


その時だった。


バシャンッ!


母親が岩場から海へ落ちた。


「いかん!」


海神ワダツミは慌てて海へ手をかざした。


次の瞬間――。


海が左右へ割れた。


母親は海底に取り残される形となり、何が起きたのか分からぬまま、岩場へ這い上がった。


「……妾が今できるのは、これくらいのことしかできぬのか。」


海神ワダツミは自分の手のひらを見つめた。


「何が神じゃ……。」


その時だった。


「きゃあああああ!」


背後から母子の悲鳴が響いた。


海神ワダツミが振り返る。


そこには、白い大きな獣がいた。


「なんじゃ……あの獣は……。」


白い獣は母子には目もくれず、浅瀬へ入っていった。


そして――。


次々と魚を獲っては、岩場へ放り投げていく。


一匹。


二匹。


三匹。


その数は、十匹を越えた。


やがて白い獣は数匹の魚を咥えると、母子を一瞥した。


そして、何事もなかったかのように、その場を去っていった。


母子は白い獣の姿が見えなくなると、岩場へ駆け寄った。


破れた網で、懸命に魚を拾い集める。


そして魚を拾い終えると、母親は白い獣が去った方角へ深々と頭を下げた。


海神ワダツミは、その光景をじっと見つめた。


「……ほら。」


海神ワダツミは小さく呟いた。


「人は、思わぬ幸運にも感謝するではないか。」


その目に涙が浮かぶ。


「畏れられていない、敬われていないなど……我らの傲慢ではないか。」


そして、はっと顔を上げた。


「白き獣……!」


海神ワダツミは白い獣が去った方へ駆け出した。


───海辺近くの茂み


「……誰だ?」


魚を貪っていた野干が、ゆっくりと顔を上げた。


その視線の先には、光を纏ったように明るい女が立っていた。


「人間……ではないな。かと言って、妖でもなさそうだ。」


野干は口元を舐めながら立ち上がった。


「妾は……海神ワダツミじゃ。」


海神ワダツミ……この国の海の神か。」


「お前は何者じゃ? ただの獣ではあるまい。」


「儂か?」


野干は鼻を鳴らした。


「儂は野干だ。」


「野干……大陸の妖か。」


「……海の神が、儂に何の用だ?」


野干は警戒するように海神ワダツミを見た。


「この魚を獲ったことが気に障ったか?」


「いや……そうではない。」


海神ワダツミは首を振った。


「お前は先程、人間に魚を獲ってやったであろう? なぜじゃ?」


野干は少し考えた。


「……獲ってやったわけではない。」


「え?」


「思いの外、多く獲れてしまっただけだ。それで儂が食べる分だけを持って帰った。」


野干は地面に残った魚を顎で示した。


「残った魚をどうしようが、儂は知らん。」


「……そうか。」


海神ワダツミは、魚を拾って帰った母子を思い出した。


「過程はどうあれ、お前のお陰で、あの母子は今日を生き延びた。」


海神ワダツミは俯いた。


「妾では……あの母子を救えなんだ。」


ぽたり。


涙が一粒、地面へ落ちた。


「お、おい……。」


野干が狼狽する。


「なんだ!? どうした!? お前は神なのだろう? なぜ泣く?」


「妾は……神なのに……。」


海神ワダツミの声が震えた。


「一組の母子を救うことすらできぬ……!」


「いや、待て。そんなことはないだろう。」


「妾は神失格じゃ!」


海神ワダツミは顔を上げた。


「お前の方が、よほど神にふさわしい!」


「は?」


野干は目を丸くした。


「何を言っている? 儂は妖だぞ!?」


「う……ぅ……うぅぅ……!」


とうとう海神ワダツミは泣き出した。


「お、おい! 泣くな! 泣くなって!!」


野干は困り果てた。


「どうすればいいんだ!?」


ぼふんっ!


次の瞬間、海神ワダツミは野干の立派な白い毛並みに顔を埋めた。


「……おい。何をしている。」


「泣き止んでやるから……しばらく、こうしていてくれ……。」


「…………。」


野干はしばらく黙っていた。


やがて諦めたように息を吐く。


「……仕方ない。」


そう言って、野干は海神ワダツミを包み込むように体を丸めた。


───回想終わり


「虎徹、優しぃ〜〜!」


紗世が目を輝かせた。


〈であろう!? であろう!? 優しいのじゃ!〉


海神ワダツミも嬉しそうに身を乗り出した。


〈その後、虎徹に、なぜ妾が神としての自信を失ったのか、すべて話したのじゃ。すると――〉


───


「くだらん。」


「……え?」


野干は海神ワダツミを真っ直ぐ見た。


「神は人間より力がある。だが、万能ではないだろう?」


「…………。」


「万能ではないからこそ、それを補うために、たくさんの神々がいる。」


海神ワダツミは目を見開いた。


「神でもできないことがあって当然だ。」


野干は静かに続けた。


「それに……」


海神ワダツミを見る。


「人間を苦しめる神がいるからこそ、そなたのように、人間を救おうとする神がいるのではないか?」


「……!」


「そなたが人を救おうと思う限り、そなたの存在意義はある。」


野干は、そう言った。


「儂はそう思うぞ。」


───


海神ワダツミは小さく息を吐いた。


〈あれは……妾の存在意義を認めてくれたのだ。〉


「もう!」


紗世は胸の前で両手を握った。


「そんなこと言われたら、好きになる一択じゃないですか!!」


〈そうであろう! 分かってくれるか!?〉


「分かります! その気持ち!!」


紗世は力強く頷いた。


「自分の頑張りを認めてくれる人って、絶対に特別ですよ!」


〈そう! そうなのじゃ!!〉


「もう! 海神ワダツミ様、可愛い〜〜!!」


〈そ、そうか?〉


「そうですよぉ! 可愛いっ!」


紗世は身を乗り出した。


「何で虎徹は、この可愛さを分からないかなぁ?」


〈まったくじゃ! なぜ分からぬのじゃ!〉


二人はすっかり意気投合していた。


───邸の門前


惟成の肩に、虎徹が乗っていた。


しばらく邸の中を見つめる。


〈…………。〉


「どうした、虎徹?」


〈なんか……〉


虎徹は、嫌な予感がするように尻尾を揺らした。


〈今、帰ったらダメな気がする……。〉


「?」


惟成には、その意味が分からなかった。


邸の中からは、紗世と海神ワダツミの楽しそうな笑い声が響いていた。

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