第286話 海神の加護
港では、経房や大伴、三宅たち、追捕本営の者たちが、愕然とした表情で海を見つめていた。
「なんということだ……。海面が大きくうねった次の瞬間、源様も紗吉殿も、子供も、その父親も、讃岐守も小舟も……何もかも、海に飲み込まれてしまった……。」
風が強く吹き、海上では白波が幾重にも重なっている。
「………そ、そんな……。」
経房は、がくりと膝をついた。
大伴は人目も憚らず大粒の涙を流し、三宅は拳を握りしめ、地面を睨みつけるように項垂れた。
「おい! 何か海からこちらへ向かってくるぞ!」
一人の武官が荒れる海を指差した。
二つの影が、ゆらゆらとこちらへ向かってくる。
「なんだ……? ……っ、あれは小舟の船夫ではないか!?」
小柄な男が何かに掴まり、海の上を滑るようにしてこちらへ向かっていた。
「あ! もう一つは讃岐守だ! 讃岐守だぞ!! 縄を持ってこい! 捕らえるぞ!!」
二人が岸へ着こうとした、その時だった。
「う、うわぁ!! なんだ、これは!?」
小柄な男が掴んでいたのは、何か大きな海の生き物の背鰭だった。
「な、なんだこの魚は!? でかいぞ! おい! お前、大丈夫か!?」
小柄な男はようやく足がつく浅瀬まで辿り着くと、ばしゃばしゃと水を掻き分けながら岸へ上がった。
「おい! 大丈夫か! どうやって助かった!?」
大伴が駆け寄っていく。
「わ、分かりません。ひっくり返った舟にしがみついてましたが、荒波にとうとう手が離れ、海に飲まれたのですが……。」
小柄な男は、浅瀬を泳ぐ大きな海の生き物をちらりと見た。
「あの大きな魚が、私の背中を押し上げて海から顔を出してくれたんです。」
「そんなことが……。」
唖然とする大伴の後ろで、別の声が上がった。
「うわあ!! なんだこりゃ!! 気持ちわりぃ!!」
自力で岸へ上がった小柄な男とは対照的に、讃岐守は何者かに岸へ引き摺られるようにして上がってきた。
「讃岐守は……気絶しておるな。縛れ。」
三宅は呆れたように言った。
讃岐守の身体のあちこちには、大きな海蛇が巻きついていた。
さらに、その周囲には無数の海蛇が群がり、まるで讃岐守を運ぶようにして岸へ押し上げていた。
やがて海蛇たちは、讃岐守を岸へ上げ終えると、するすると海へ戻っていった。
「海神様か……。」
経房が呟いた。
「海神様とは、海神信仰の?」
三宅が聞き返す。
「ああ。この海の恩恵を受けて生きるこの地には、昔から海神様がおられると言われておる。海神様の眷属は、海蛇や鱗を持たぬ大きな魚だと聞いたことがある!」
経房は荒れる海へ向かって叫んだ。
「海神様ーーー!! 源様と紗吉殿をお返しくださりませーーーっ!!」
その叫びを聞き、大伴も声を張り上げる。
「海神様ーー!! 讃岐守を助け、源様と紗吉殿を助けぬ道理が分かりませぬ!! どうか、源様と紗吉殿をお助けください!!!」
「海神様ーーーっ!!」
「お願いします! 海神様ーーーっ!!」
「源様と紗吉殿をお返しくださりませーーー!!」
港にいた者たちが、口々に叫んだ。
次の瞬間――。
ゴ……ゴ……ゴ……。
地鳴りのような、大きな音が響いた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォ―――。
目の前の海が、ゆっくりと左右に割れ始めた。
「な………な、な……。」
目の前で起こっている、あり得ない光景に、誰もが言葉を失った。
割れた海の先。
そこに、二つの人影があった。
幼子を抱いた紗世と、惟成だった。
港にいる経房たちの姿に気付いた二人は、安堵したように小走りで戻ってくる。
「み、源様ーーー!!」
「紗吉殿ーーーー!!」
港の者たちが、二人へ駆け寄っていく。
「と……とよーーっ!!」
小柄な男も、紗世が抱いている幼子に駆け寄った。
「あなた、とよちゃんって言うのね。お父さん、来てくれたよ。」
紗世は幼子を、小柄な男へ差し出した。
「と、とよっ!! とよ!! 良かったぁ……本当に……!! ありがとうございます! ありがとうございます!!」
男は、とよを抱いたまま膝をつき、何度も何度も頭を下げた。
その時だった。
――ドォオオオン!!!!
紗世たちの真後ろで、轟音が鳴り響いた。
割れていた海が、閉じた音だった。
───その日の午後
港には、大勢の民衆が押し寄せていた。
「ここか!? 海が割れたっていうのは!」
「どこだ? どの辺りが割れたんだ?」
「アタシは見たよ! 海が割れたところ!」
「本当か!? どんなだった!?」
「海が左右に割れて、一本の道ができたのさ。その道の向こうから、荒波に飲まれたはずの追捕使様と、幼子を抱いたお付きの少年が歩いてきたんだよ! その神々しさと言ったら……」
海が割れたという話は、瞬く間に讃岐中へ広まっていた。
噂の真相を確かめようとする民衆で、港はごった返している。
「追捕使様のお付き……実は都のお姫様らしいぞ?」
「何でも、追捕使様と将来を誓っている姫だとか。」
「じゃあ、追捕使様とお姫様は夫婦みたいなものだな。二人揃って海神様の加護を受けたってことか……?」
「お姫様は……ほら、あれ。最近噂になってる新しい食べ物……なんだっけ?」
「うどん……とか言ったか?」
「そうそう、それ! それを作り出したのは、あのお姫様らしいぞ。」
「しかも、その食べ物は朝廷への献上品になるかもしれないって!」
「追捕使様は海賊問題を解決してくれて、お姫様は讃岐の新しい食べ物を作り出したって……。」
「そりゃあ、海神様の加護を受けるはずだ……。」
「どんなお方達なんだろうねぇ。一目、見てみたいねぇ……。」
そんな話で盛り上がっているところへ、一人の役人が集まっている民衆の元へやって来た。
「お前達、次に市が立つのは三日後だぞ! 見世の準備をしておけ!」
「いつもの市だろ? 言われなくても準備してるさ。今回に限って、なんだよ。」
一人の農民が怪訝そうに呟く。
すると役人は、にやりと笑った。
「その市では、今お前達が話していた姫君が作り出した『うどん』も出るらしいぞ?」
「うどんが!?」
「しかも、姫君はかなり気さくで、お優しいお方と聞く。もしかしたら、市にいらっしゃるかもしれぬぞ?」
港が、一瞬だけ静まり返った。
そして――。
「じゅ……じゅ……じゅ……準備だーーーーっっ!!」
「最高の物を揃えるぞ!!!」
「魚を出せ! 一番いいやつを持ってこい!」
「うちの野菜も負けちゃいられねぇ!」
農民、漁師、猟師、小間物屋――。
市に見世を出す者たちは、一斉に走り出した。
三日後の市は、いつもの市とは少し違う。
そんな予感が、讃岐の町を駆け巡っていた。




