第285話 海の彼方の女神
静かな海の中。
遠く、海面に見える太陽の光。
青い海と、柔らかな白い光。
(………綺麗………。)
荒れ狂っていた海面とは違う。
そこには、音さえも失われたような静かな世界が広がっていた。
紗世は思わず死の恐怖を忘れ、純粋な感動に包まれていた。
不意に、身体を引き寄せられる。
強く、温かな腕に抱き締められた。
(惟成………。)
きっと、もう二人とも助からない。
なのに、なぜこんなにも穏やかな気持ちなのだろう。
惟成もまた、穏やかな笑みを浮かべていた。
(あなたに出会えて、良かった。
心からあなたを愛することができた。
心からあなたに愛してもらえた。
なんて幸せだったんだろう。)
言葉を交わさなくても、互いに同じことを思っている。
紗世には、なぜかそれが分かった。
(あなたと契りも交わせた。
思い残すことは無い。
こんな穏やかな気持ちで死ねるなら───。)
その時だった。
〈死ぬには、ちぃとばかり早いのではないかえ。〉
紗世と惟成の頭の中に、直接語りかけるような声が落ちた。
(───え?)
ズッ……。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
海が、聞いたこともないような轟音を立て始めた。
紗世は目を見開いた。
周囲の海水が、何か巨大な力に押し退けられるように動いていく。
水位が、ぐんぐんと下がっていく。
そして気付けば───。
足が、地面についた。
「………っはぁ……!! げほっ、げほっ……!」
突然、息ができるようになった。
紗世と惟成は激しく咳き込みながら、必死に空気を吸い込む。
「………なんだ? どこだ? ここは……陸地?」
惟成が足元を見る。
そこには、水に濡れた砂や小石が転がっていた。
「ち………違う……惟成……見て……!」
紗世の声に、惟成が顔を上げる。
二人は周囲を見渡した。
その瞬間、言葉を失った。
二人を取り囲むように、巨大な水の壁がそびえ立っていた。
水の壁の中では、魚が何事もなかったかのように泳いでいる。
「なんだ、これは……。どうなっている?」
惟成も、さすがに困惑していた。
しかし、紗世はすぐに腕の中の幼子へ目を向ける。
「この子……!」
紗世は幼子を地面に横向きに寝かせ、口元を確認した。
「お願い……!」
幼子はぐったりしている。
顔も青ざめ、反応がない。
「しっかりして……! お願い……!」
紗世は幼子の背中を叩き、呼吸を確かめる。
「惟成……!」
「貸せ!」
惟成もすぐに幼子を抱き起こした。
「………っ……。」
「おい! しっかりしろ!」
惟成が幼子の背中を叩く。
「………っげっ……げぇっ……!」
そして───。
「げぼっ!げっ…げえっ…!!」
ビシャビシャッ!
幼子の口から、海水が漏れた。
「……!」
紗世の目が見開かれる。
「もう一度……!」
惟成が背中をさすると、
「げほっ……げっ……っふぇぇ……。」
「泣いた……!」
次の瞬間。
「ふええええええん!!」
幼子が大声で泣き始めた。
「良かった……!」
紗世はすぐに幼子を惟成から受け取り、ぎゅっと抱き締めた。
「怖かったねぇ。もう大丈夫だからね。お父さんのところへ帰ろうね。」
幼子は泣きながら、紗世の衣を小さな手で掴んだ。
惟成は大きく息を吐く。
「……生きている。」
「うん……!」
紗世も涙を浮かべながら頷いた。
そして、ふと先ほどの声を思い出す。
「惟成……。」
「ん?」
「さっき……海の中だったけどさ。」
「ああ。」
「『死ぬには早い』って言われた気がしたんだけど……。」
「……俺も聞いた。」
惟成は周囲を見渡した。
「女人の声だったと思う。いったい誰だ……?」
二人が首を傾げた、その時だった。
〈妾じゃ。〉
ズシャッ!!
突然、目の前に何かが降り立った。
「え?」
二人が目を向ける。
そこにいたのは───。
野干の姿をした虎徹だった。
そして、その背には、今まで見たことのない女が座っている。
「虎徹! 虎徹がまた助けてくれた……の……って……。」
紗世は女を見上げた。
「背中の方、どなた?」
虎徹はため息をつくように耳を伏せた。
〈今回は、儂が助けた訳ではない……。〉
そして、背中の女をちらりと見る。
〈そなたらを助けたのは、妾じゃ。〉
虎徹の背に座っていた女が、にっこりと笑った。
輝くような白い衣。
透き通るように白い肌。
切れ長の瞳。
人とは思えぬほど美しい女だった。
「助けていただき、ありがとうございます。」
惟成は深々と頭を下げた。
「……貴方様は高貴なお方とお見受け致しますが、何者でございましょうか。」
女は、くすりと笑った。
〈妾か?〉
そして、ゆっくりと名乗る。
〈妾は海神じゃ。〉
「わ、海神!?」
紗世は目を瞬かせた。
「神様!?」
〈そうじゃ。〉
海神は楽しそうに笑う。
〈紗世姫よ。妾はそなたに一度助けられたでな。今日はそのお返しじゃ。〉
「へ?」
紗世は首を傾げた。
「助けた? 私が? いつ?」
海神は小さく笑うと、その姿をゆっくりと変えていった。
白い衣が消える。
身体が細くなり、白い鱗が現れる。
そして───。
紗世の目の前に、一匹の白蛇が現れた。
「あっ……!」
紗世の目が見開かれる。
「あの納屋で、天井から降ってきた白蛇!?」
白蛇は、再びみるみる姿を変えていく。
やがて元の美しい女神の姿へ戻った。
〈そうじゃ。そなたのお陰で、妾の玉の肌に傷が残らなんだ。〉
海神は満足そうに頷いた。
〈ふん。何を言う。傷など一瞬で治ろうが。〉
虎徹が、遠くを見ながら吐き捨てるように言った。
すると海神は虎徹を見て、にやにやと笑う。
〈この人間達は、お前のお気に入りでもあるのだろう? 野干よ……いや、虎徹と言うのか、今は。〉
〈……ぐぅっ……。〉
虎徹の耳がぴくりと動いた。
〈この二人が波に飲まれた時のお主の顔といったら……。お主のあんなに焦った顔は、なかなか見られん。〉
海神は口元を隠し、くすくすと笑う。
〈妖とて、お主は獣。水は苦手か。〉
「虎徹……。」
紗世は驚いたように虎徹を見る。
「海神様を知っているの?」
虎徹は耳を伏せ、露骨に嫌そうな顔でそっぽを向いた。
〈まあ、知ってはいる。それだけだ。〉
〈何と冷たいことを言う!? 妾とお主の仲ではないか。〉
「……?」
〈妾とこやつは……人間で言うところの、なんだ。〉
海神は少し考え込む。
そして、にっこり笑った。
〈“良い仲”と言うやつじゃ。〉
〈勝手なことを言うな! 神と妖ぞ!? 釣り合う関係ではないわ!〉
虎徹が珍しく声を荒らげた。
〈おや。そのようなことを気にしておったのか? 妾は気にはせんぞ?〉
〈そういう問題ではない!〉
虎徹が苛立たしげに尻尾を振る。
そのやり取りを、紗世と惟成は唖然として見ていた。
「何か……虎徹と海神様って……。」
紗世が小声で呟く。
惟成も、何とも言えない顔で頷いた。
「ああ……。関係性は、そこはかとなく分かったな。」
その時だった。
紗世の腕の中の幼子が、ぐずり始めた。
「ぅっ……。」
「ん?」
「う、うぎゃああああん!!」
突然、大声で泣き出す。
「あっ! ごめんねぇ。」
紗世は慌てて幼子をあやした。
「怖かったねぇ。もう大丈夫だからね。お父さんのところへ戻ろうねぇ。」
そして、海神を見上げる。
「あの、海神様。」
〈なんじゃ?〉
「まずは、この子を父親の元へ返してあげたいのですが……。」
〈おお。そうだった。〉
海神は、思い出したように手を叩いた。
〈安心せい。そなたらの他に、海を漂っていた男と、小舟にしがみついておった男は、妾の眷属に岸へ運ばせておいたぞ。〉
「あ、ありがとうございます!」
紗世は深々と頭を下げた。
惟成も続けて頭を下げる。
「ありがとうございます。」
そして、惟成は改めて周囲を見渡した。
「今更ですが……私達は今、どのような状況なのでしょうか。」
海神に尋ねる。
「ここは……どこなのでしょう。」
海神は何でもないことのように答えた。
〈ここか?〉
そして、周囲にそびえる巨大な水の壁を見渡す。
〈ここは海のど真ん中じゃ。〉
「…………。」
「…………。」
紗世と惟成が固まった。
〈妾の神通力で、海を割いてこの場所を作っておる。〉
二人はゆっくりと顔を見合わせる。
そして───。
「えぇぇぇぇーーーーーーっ!!!!??」




