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第284話 その手、離さず

「貴様! 舟を止めるつもりか!?」


小柄な男の足元から、鋭い声が飛んだ。


「貴様の子がどうなってもいいのか!?」


足元に積まれた筵の下。


そこには、粗末な衣を纏った讃岐守が身を潜めていた。


そして、その腕の中には二歳ほどの幼い子供が抱かれている。


「や、やめてくれ!! 子供に手を出さないでくれ!!」


小柄な男は必死に訴えた。


父親が狼狽え、見知らぬ男に抱かれている。


幼子はただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、やがて顔を歪めた。


「ぅ……うぇ……ふえええーーーっ!!」


とうとう泣き出してしまう。


「なに!? 子供の声!?」


舟で接近した武官だけでなく、港にいる紗世や惟成たちにも、その泣き声が響いた。


「くっ……くそっ!」


讃岐守は筵の下から立ち上がり、幼子を抱き上げた。


「見ろーーー!! 貴様ら!! それ以上近付けば、この子供を殺す!!」


そう叫び、抱き上げた幼子の身体に小刀を突きつける。


「やっ……やめてくれぇ……。頼むよぉ……。」


小柄な男は小舟に膝をつき、手を擦り合わせながら懇願した。


「娘は……死んだ妻の忘れ形見なんだぁ……。」


「……あんな小さな子供を人質に取るなんて……!」


紗世は怒りに唇を噛んだ。


「み……源様……!」


経房も狼狽えたように惟成を見る。


「幼子を人質とは……貴族どころか、人間の屑だな……。」


惟成は険しい顔で、讃岐守の乗る小舟を見つめていた。


武官の舟も、それ以上近付くことができない。


その時だった。


「ねぇ、讃岐守の乗ってる舟……こっちに近付いてない?」


紗世が呟いた。


確かに、小舟と港との距離が少しずつ縮まっている。


「……風か。」


惟成は空を見上げ、それから海面へ視線を落とした。


「いや……潮だ。」


先ほどまで穏やかだった海面が、少しずつ変わり始めている。


風が強まり、海面には白波が立ち始めていた。


「讃岐守の舟が、自分で戻ってきているわけではない。」


惟成が低く言った。


「潮に流されている。」


そのことに気付いたのか、讃岐守も慌て始めた。


「おい! 貴様! 何をしている!! 流されているではないか!」


小柄な男へ怒鳴りつける。


「沖だ!! 沖へ向かえ! 早く櫂を漕げ!!」


「ぎゃああああん!!」


幼子はさらに大きな声で泣いた。


「ぅ……うぅ……。」


小柄な男は顔を歪めながら、必死に櫂を漕ぎ始める。


だが、人の力で潮の流れを押し返すことなどできない。


小舟はみるみるうちに港へ近付いていった。


その一方で、海面の様子はさらに変わっていく。


風が強まり、雲の流れも速くなる。


白波が幾重にも重なり、海面が不規則に揺れ始めた。


「これは……まずいな。」


惟成が呟く。


「え? 惟成? どうしたの?」


紗世が首を傾げる。


惟成は海を見据えたまま答えた。


「風と潮がぶつかり始めている。」


「え?」


「白波が大きくなる。あの程度の小舟では、横から波を受ければすぐに転覆する。」


惟成の顔が険しくなる。


「最悪の場合、強い渦に巻き込まれる。」


「え!? あの小舟には小さい子が乗ってるんだよ!?」


紗世の顔から血の気が引いた。


惟成はすぐに海上の武官へ向かって叫んだ。


「もうすぐ波が大きくなる! その舟では持たん!! すぐに港へ引き返せ!! 死ぬぞ!!」


「はっ!!」


武官の乗った舟は、すぐに船首を返した。


だが、讃岐守の乗った小舟は潮に流されるがままだ。


「だ、旦那……。」


小柄な男が縋るように言う。


「こんな舟じゃ、横波が来たら一発だ。戻りやしょう。旦那も死んじまいますよ。」


「だ……ダメだ!」


讃岐守は幼子を強く抱きしめた。


「引き返してはならん! 引き返そうとしたら、この子を殺すぞ!」


「そ……そんな……。」


小柄な男は絶望したように櫂を握りしめた。


港にいる者たちも、為す術なく小舟を見つめている。


紗世も海を見つめた。


(でも……あの小舟、潮に流されて港の方に押し返されてる……。)


港から小舟までの距離が、少しずつ近付いている。


(だったら……。)


紗世は幼子を見つめた。


(あの子だけでも、どうにかできないかな……。)


その時だった。


海面が大きく盛り上がった。


「な……!」


誰かが声を上げた。


次の瞬間。


巨大な波が、小舟へと襲いかかった。


小舟が大きく傾く。


「うわああああっ!!」


小柄な男が必死に舟の縁へしがみついた。


舟の上に立っていた讃岐守は、大きく身体をよろめかせる。


「ぐっ……!」


その腕から、幼子が離れた。


「え……?」


讃岐守の顔が青ざめる。


そして――。


ばしゃああああん!!


二人の身体が、まとめて海へ落ちた。


「きゃああああっ!!」


紗世が叫ぶ。


幼子の小さな身体が、白波の合間へと飲み込まれていく。


「紗世!?」


惟成が叫んだ。


だが、その時にはもう遅かった。


バサッ――。


衣擦れの音。


次の瞬間。


バシャンッ!!


紗世が水干を脱ぎ捨て、海へ飛び込んでいた。


「紗世!!!」


惟成が叫ぶ。


紗世は水面から顔を出し、必死に幼子を探す。


(なるべく流れに逆らわない……!)


現代で覚えた海の知識が、頭を駆け巡る。


(潮の流れに乗れば……子供と同じ場所へ流されるはず!)


「くそっ!」


バシャアンッ!!


惟成も狩衣を脱ぎ捨て、海へ飛び込んだ。


「源様、紗吉殿ーーーっ!」


港から、大伴や三宅、経房の声が上がる。


だが、二人の姿はすでに港から離れ始めていた。


紗世は海面を見回す。


幼子の姿が見えない。


「……っ!」


紗世は大きく息を吸い込むと、海へ潜った。


冷たい水が全身を包む。


視界が一気に青くなる。


海中には、潮に流されていく小さな身体があった。


(いた……!)


だが、幼子はぐったりとしている。


(息が……!)


紗世は一度海面へ浮上した。


大きく息を吸う。


そして、再び潜った。


(あと……少し……!!)


必死に腕を伸ばす。


ガッ!!


紗世の手が幼子の衣を掴んだ。


(よし!)


そのまま幼子を抱き抱え、海面へ浮上する。


「ぶはっ……!」


息を吐き出しながら、幼子を抱きしめる。


しかし、幼子はぐったりしたままだった。


(早く岸へ戻らないと……!)


その時。


「紗世ーー!」


後ろから、惟成の声が聞こえた。


「惟成……!」


紗世が振り返る。


惟成の姿を捉えた瞬間、胸の奥に安堵が広がった。


だが――。


「後ろだ!!」


惟成の顔色が変わる。


「強い潮が来ている!! そこから離れろ!!」


「え……?」


紗世が振り返った、その瞬間。


身体が強く後ろへ引かれた。


「きゃ――!」


無数の気泡が、目の前を覆う。


ゴポゴポゴポゴポ……!!


「紗世!!」


強い流れに、紗世の身体が持っていかれる。


幼子を抱きしめたまま、海中を激しく回された。


(どうなってるの……!?)


上も下も分からない。


右も左も分からない。


どちらが海面なのかさえ、分からない。


(息……が……。)


肺が苦しい。


意識が遠のきかけた、その時だった。


ガシッ!!


誰かの手が、紗世の手を掴んだ。


(……この手……。)


指先に触れた感触。


紗世には分かった。


(惟成だ……。)


強く引かれる。


紗世と幼子の身体が、惟成の方へ引き寄せられた。


「……ごほっ! げほっ、げほっ!!」


辛うじて海面へ顔を出す。


「紗世! しっかりしろ!!」


「……惟成……。」


声を絞り出す。


だが、状況は変わらない。


強い潮流に身体を流され、白波が幾重にも押し寄せる。


海面へ浮かんだと思えば、すぐに身体が海中へ引き込まれる。


「岸は……すぐそこなのに……!」


惟成が苦しげに息を吐く。


「この潮では……これ以上、近付けん……!」


「惟成……。」


紗世は幼子を抱きしめる。


二人とも、もう泳ぐ力が残っていない。


その時。


「源様ーー!!」


「紗吉殿ーー!!」


岸から、大伴たちの声が聞こえた。


紗世が顔を上げる。


だが、その声さえ遠くなっていく。


海面が大きくうねった。


そして――。


ゴポゴポゴポゴポゴポゴポ……!!


二人と幼子の身体が、まとめて海中へ引き摺り込まれた。


暗い海の底へ。


光さえ届かない場所へ。


紗世は惟成の手を、必死に握りしめた。


そして惟成もまた、その手を決して離さなかった。

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