第283話 潮の向こうへ
───翌朝。
紗世は台盤所で朝餉の支度をしていた。
釜の蓋を少し持ち上げ、立ち上る湯気を覗き込む。
「うん。もうちょっとかな。」
そう呟いた時だった。
「源様! 源様はいらっしゃいますか!」
門の方から、慌ただしい声が響いた。
紗世が顔を上げる。
「惟成?」
母屋からも、惟成の声が返ってきた。
「ここだ。どうした?」
ほどなくして、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
一人の武官が、息を切らせて母屋へ入ってくる。
「源様、急報でございます!」
「何があった?」
惟成はすでに身支度を整えていた。
武官は深く頭を下げる。
「讃岐守と思われる男を見たという報告が、港から入りました。」
惟成の表情が変わった。
「讃岐守を?」
「はい。昨日の夕刻、港近くで船夫に船を出すよう頼んでいた男がいたそうです。」
「船夫は応じたのか?」
「いいえ。港も関所も封鎖されていることを理由に断ったと。」
「……そうか。」
惟成は腕を組み、しばし考えた。
「男は何と言っていた?」
「沖まで出れば追手は来られない、備前へ渡りたい、と。」
「やはり海へ逃げるつもりか。」
「その可能性が高いかと。」
惟成は頷いた。
「港の封鎖は?」
「続いております。」
「ならば、まだ讃岐からは出ていない可能性が高いな。」
「はい。」
その会話を聞いていた紗世が、台盤所から顔を覗かせた。
「惟成。」
「聞いていたか。」
「うん。讃岐守と思われる人の情報があったんだって?」
「ああ。」
惟成は立ち上がった。
「港へ行く。讃岐守がどこから船を出そうとしているのか、現地で確認する。」
「私も行く!」
即答だった。
惟成が紗世を見る。
「……お前も?」
「うん。」
「危険だぞ。」
「分かってる。」
紗世は少しだけ真剣な顔になった。
「今の讃岐守って、何をするか分からないんでしょ?」
「……そうだ。」
「だったら、私だけ邸に残る方が危なくない?」
惟成は黙った。
紗世の言う通りだった。
讃岐守は追い詰められている。
不正を暴かれ、逃亡を余儀なくされ、港も関所も封鎖されている。
そんな男が、逃亡の途中で紗世を見つけたら。
何をするか分からない。
「……その通りだな。」
惟成は小さく息を吐いた。
「お前を一人で置いていく方が、俺も気になる。」
「じゃあ一緒に行こう。」
「ああ。」
紗世は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、朝餉は?」
惟成が台盤所を見る。
「……後にする。」
「ええー!」
「急報だぞ。」
「せっかく炊いたのに。鶏の炊き込みご飯……。」
「帰ってきてから食べればいい。」
「冷めちゃうよ。」
「温め直せばいい。」
「……分かった。」
紗世は渋々頷いた。
「じゃあ、行ってきます。」
「誰に言ってるんだ?」
「朝餉に。」
「……食べ物に挨拶するな。」
惟成は呆れたように言った。
二人は急いで身支度を整え、邸を出た。
惟成は馬に跨がり、その後ろに紗世を乗せる。
「しっかり掴まっていろ。」
「うん。」
馬が走り出す。
蹄が砂埃を跳ね上げる。
「惟成。」
「なんだ?」
「讃岐守は、普通の船を雇おうとしたんだよね?」
「ああ。」
「じゃあ、船を出してくれる人を見つけたら、そのまま海へ出ちゃうんじゃない?」
「だから急いでいる。」
惟成は前方を見据えたまま答えた。
「港を封鎖しているとはいえ、港以外から小舟を出すことはできる。漁師や船夫に金を積めば、危険を承知で船を出す者が現れるかもしれん。」
「……お金って怖いね。」
「金があれば何でもできるわけではない。」
「でも、困ってる人に大金見せたら、ちょっと考えちゃうでしょ?」
「だからこそ、船夫達には讃岐守の特徴を伝えてある。」
「そっか。」
紗世は少し考える。
「じゃあ、もし船を出してくれる人が見つからなかったら?」
「別の港へ向かうだろう。」
「別の港?」
「ああ。」
惟成の声が低くなる。
「讃岐守が本当に海へ逃げるつもりなら、一つの港に断られた程度で諦めるとは思えない。」
「……なるほど。」
「だから港を一つずつ当たる。」
「地道だね。」
「追捕とはそういうものだ。」
そう言った惟成の声には、わずかな疲労が混じっていた。
だが、その目には迷いがない。
しばらく馬を走らせると、前方に海が見えてきた。
朝の光を受けた瀬戸内海が、遠くまで広がっている。
潮の匂いが風に乗ってくる。
紗世が目を細めた。
「海だ。」
「……ああ。」
惟成も海を見る。
だが、穏やかな景色とは裏腹に、その胸中には緊張が走っていた。
讃岐守はまだ、このどこかにいる。
そして、何としてでも讃岐を出ようとしている。
「急ぐぞ。」
「うん!」
二人を乗せた馬は、さらに速度を上げた。
やがて、港の喧騒が聞こえてくる。
船を繋ぐ縄の軋む音。
漁師達の声。
潮の匂い。
そして、その中に混じる緊張した空気。
惟成は馬を止めた。
「着いたぞ。」
紗世も前方を見る。
そこには、幾艘もの船が並ぶ港が広がっていた。
讃岐守が逃げようとしている海が、二人の目の前にあった。
港には、すでに何人もの武官や役人たちが集まっていた。
「経房殿、讃岐守の居場所は?」
惟成が尋ねると、和気経房は手元の海図を指差した。
「ここのような主要な港からの出港は目立ちます。故に、港ではない場所から小舟を出す可能性が高いと考え、秘密裏に出港するならどこが適しているかを話し合っていたところです。」
「そうか。それで、どこか目処は立ったのか?」
「ええ。小舟を秘密裏に出すからと言って、ただ人目につかない場所から出ればよいというわけでもありません。瀬戸内海は潮の流れが複雑ですから、小舟でも沖へ出やすく、危険な海域を避けられる場所を選ぶはずです。あとは――」
経房が海図へ視線を落とした、その時だった。
惟成たちの横で、紗世がふと海へ目を向けた。
そう遠くない沖合を、一艘の小舟が進んでいる。
櫂を使い、港から離れていく。
紗世は目を凝らした。
「……あれ?」
そして、次の瞬間。
「あれ! 見て!! 小舟が沖に向かってる!!」
紗世の声に、周囲の者たちが一斉に海を見た。
小舟には、櫂を操る小柄な男が一人。
「……あの舟、一人か?」
大伴が眉をひそめる。
「いや……」
惟成の低い声が落ちた。
「舟に積んである荷の筵が、僅かに動いた。」
惟成は目を細めた。
「人が隠れている。」
「では、讃岐守が……?」
経房が息を呑む。
「まだ分からん。だが、港は封鎖中だ。あの舟を止める。」
惟成はすぐに大伴へ向き直った。
「大伴、あの舟へ向かえ。停止を命じろ。」
「は!」
大伴は近くに停泊していた舟の船夫へ駆け寄り、出航を命じた。
ほどなくして、一艘の舟が港を離れる。
一人の武官が乗り込み、小舟へと近づいていった。
やがて海上に、武官の声が響く。
「そこな舟、止まれ!! 現在、港は閉鎖中である! いかなる舟も海へ出ることはまかりならん!!」
櫂を操っていた小柄な男の肩が、大きく揺れた。
「……ぶ、武官様……。」
小柄な男の足元から、小さな声が飛ぶ。
「舟は止めるな。貴様、止めたらどうなるか分かっておろうな?」
「あ……。」
小柄な男は狼狽え、櫂を握る手が震える。
「止まれと言っている!! 止まらぬなら、強制的に止めるぞ!!」
武官の声が、さらに厳しくなる。
「……っ!」
小柄な男は、足元と迫ってくる武官の舟を交互に見た。
そして――。
「ぶ……武官様!!」
小柄な男が突然、声を張り上げた。
「助けてください!!」
悲痛な叫びが、海上に響き渡った。




