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第282話 逃亡の果て

──讃岐の、とある港。


 粗末な衣をまとい、頭に手ぬぐいを巻いた男が、船夫へ食い下がっていた。


「どうしても船は出せないのか!?」


「だから無理だって言ってるだろ。港も関所も封鎖中なんだ。今は一隻たりとも出せねぇよ。」


「沖まで出てしまえば追手も来られまい! 備前へ着きさえすれば……。」


 なおも言い募る男を、船夫は呆れたように首を振る。


「無茶言うなよ。備前へ逃げたところで、いつ戻れるか分からねぇじゃねぇか。『もう大丈夫だ』と思って帰ってきたら捕まった、なんて御免だぜ。」


 そのやり取りを聞いていた漁師が口を挟んだ。


「港の封鎖には俺たちだって参ってるんだ。船が出せなきゃ漁にも出られねぇ。漁ができなきゃ飯も食えねぇんだからな。」


 そして、吐き捨てるように言う。


「……ったく。全部、讃岐守のせいだ。もし見つけたら、ぶん殴ってやる。」


 ほっかむりの男の肩がぴくりと震えた。


「……讃岐守の、せいだと?」


「なんだ、あんた知らねぇのか。」


 漁師は呆れたように続ける。


「讃岐守が税を横領してたんだとよ。それがバレて逃げたもんだから、港も関所も封鎖されたってわけさ。」


「……港や関所の封鎖は、追捕使の関係者が攫われたからでは……?」


「ああ、最初はな。でも、その人は無事に見つかったらしい。それで今度は讃岐守が逃げたって話になって、封鎖がそのまま続いてるんだ。」


 男は拳を固く握り締めた。


(私の身代わりの遺体は置いてきたはずだ……。まだ見つかっておらぬのか……。いや、それとも……あの遺体は私ではないと見抜かれたのか……。)


「くそっ……!」


 男は踵を返し、人混みの中へ走り去っていった。


 残された船夫と漁師は、その背中を不思議そうに見送る。


「なんだ、あいつ。」


「見ねぇ顔だったな。」


「それにしても、讃岐守が横領とはなぁ。」


「ほんとだ。見つけたら一発ぶん殴ってやりてぇ。」


 船夫が冗談半分に笑う。


「実は今のが、その逃げてる讃岐守だったりしてな。」


「まさかな!」


 二人は顔を見合わせ、大声で笑った。


 本人が、その笑い声を背に逃げているとも知らずに。




 ──夕刻


 惟成が仮住まいへ戻ると、母屋から香ばしい匂いが漂ってきた。


(今日は魚ではないな……。)


 どこか懐かしい匂いに惹かれ、惟成は台盤所へ向かった。


 いつものように、紗世が忙しそうに釜に火をくべていた。


「帰ったぞ。」


 声を掛けると、紗世は振り返り、ぱっと表情を輝かせた。


「おかえりなさい!」


 嬉しそうに駆け寄ってくる。


「美味そうな匂いだな。前にも嗅いだ覚えがあるが……何だったか。」


「鶏だよ!」


 紗世は満面の笑みを浮かべた。


「なるほど。肉だったか。」


 惟成は納得したように頷く。


「だが、市に鶏肉が並んでいたのか?」


「ううん。市じゃないよ。」


 紗世は笑いながら首を振った。


「海賊船を調べてたら、大きな竹籠があってね。その中に鶏がいたの。」



 ──昼間・海賊船


 紗世は大伴と共に船内を見回っていた。


「何か……潮の匂いじゃない匂い、しません?」


「うむ。俺も気になっていた。」


 大伴は鼻を鳴らしながら奥の扉を開いた。


 途端に、湿気を含んだ独特の匂いが流れ出す。


 視線の先には大きな竹籠。


 その中では十数羽の鶏が羽をばたつかせていた。


「鶏です!」


 紗世は駆け寄る。


 竹籠の中には餌や汚れが混じり、その隙間には卵がいくつも転がっていた。


 籠の脇には粟の入った麻袋が積まれ、嘴でつつかれた跡も残っている。


(食べ物があったから、生き延びられたんだ。)


「大伴様。この鶏は、どこへ運ばれる予定だったのでしょう?」


「讃岐守か、どこぞの豪族の屋敷だろう。庶民向けではあるまい。」


 そう言って思い出したように笑う。


「そういえば先日、讃岐守が『最近、鶏が刻を告げなくなった』などとぼやいておったな。」


(この時代は、鶏は食べ物というより時を告げる鳥だもんね。)


「じゃあ、それぞれの屋敷へ届けましょうか?」


「そうだな。生き物だから早い方がいい。」


 大伴は紗世を見た。


「紗吉殿、讃岐の貴族や豪族は分かるか?」


「はい。一通りは。」


「ならば聞いて回ってくれ。誰か他の者も連れて行くといい。」


「承知しました!」




 ──回想終わり


「……というわけで、あちこち回って聞いてきたんだけど、ほとんどの邸は頼んでないって。」


 紗世は火の調整をしながら話を続ける。


「頼んでたのは讃岐守だけだったみたい。」


「ほう。」


「讃岐守邸へ行ったら三宅様がいて、出納帳や品物の管理簿を調べたら、鶏を十五羽も注文してたの。」


「十五羽も?」


「うん。でも理由は分からなくて。」


 紗世は肩をすくめた。


「三宅様は、『各邸の鶏を人に殺させ、困った貴族や豪族へ売りつけるつもりだったのではないか』って。」


 惟成は苦く笑った。


「……讃岐守らしい私利私欲だ。」


「でね!」


 紗世は嬉しそうに俎板へ下拵えを終えた鶏肉を並べた。


「もう讃岐守はいないし、他の貴族や豪族も『鶏はいらない』って言うから――」


 胸を張って宣言する。


「『要らないなら私にください!』って言って、今に至ります!」


 惟成は一瞬ぽかんとした後、小さく吹き出した。


「なるほど。」


「だから今日は鶏料理!」


 紗世は満面の笑みで言った。


 その笑顔につられるように、惟成も静かに笑みを浮かべた。

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