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第280話 後朝の誓い

薄明かりが、ようやく蔀戸の向こうを淡く染め始めていた。


昨夜の雨は上がり、夜と朝の淡いような陽の光と静けさの中で、惟成は紗世を抱いたまま、しばらく動けずにいた。


腕の中の紗世は、まだ少し息を乱したまま、惟成の胸に頬を寄せている。


細い肩。

乱れた髪。

わずかに紅を差したような頬。


その姿があまりにも柔らかくて、惟成はそっと目を伏せた。


「……すまん。」


不意に落ちた声に、紗世が顔を上げた。


「え?」


惟成は紗世を見ないまま、片手で額を押さえた。


「少し、調子に乗りすぎた。」


低い声だった。


いつもの冷静な惟成に戻ろうとしているのに、

どこかまだ熱が残っている。


紗世はきょとんとした。


「調子に……?」


惟成は眉間に皺を寄せたまま、自分でも呆れたように小さく息を吐く。


「昨夜だけでも十分だったのに。」


そこで言葉を切る。


さすがに口にするのも気恥ずかしいのか、惟成はわずかに視線を逸らした。


「……あんなふうに、もう一度お前を離せなくなるとは思わなかった。」


紗世は一瞬、意味を理解するまで黙った。


そして、その意味に気づいた途端、頬が一気に熱くなる。


「……っ」


惟成はそんな紗世の反応に気づかないまま、自分を責めるように続けた。


「身体を気遣うと言った直後に、結局また……。」


「惟成。」


「痛かっただろう。」


その声は、本気で後悔しているようだった。


「無理をさせた。」


紗世は少しだけ目を丸くした。


あれほど乱されても、最後に気にするのは自分のことなのだと分かって、胸がじんわり熱くなる。


「惟成。」


今度は少しだけ強く呼ぶ。


惟成がようやく視線を向けた。


紗世は恥ずかしそうに、けれど小さく笑った。


「……嫌じゃなかったよ。」


惟成が黙る。


紗世はますます恥ずかしくなって、惟成の胸元に顔を埋めた。


「その……びっくりしたけど……。」


声が小さくなる。


「二回目も……ちゃんと、嬉しかった。」


部屋がしん、と静かになった。


惟成はしばらく、何も言わなかった。


紗世は顔を上げられない。


言ってしまってから、自分が何を口にしたのか分かって、耳まで熱くなる。


「……紗世。」


惟成の声が、さっきよりずっと低い。


「う、うん……?」


恐る恐る顔を上げると、惟成がじっとこちらを見ていた。


その目に、さっきまで消えかけていた熱がまた静かに戻りかけている。


紗世は思わず目を見開いた。


「え、ちょっと待って、その顔は——」


「お前がそんなことを言うからだ。」


真顔だった。


「いや、だって、落ち込んでるみたいだったから……。」


「慰め方を間違えてる。」


「ええっ!?」


惟成は小さく息をついて、紗世の頬に触れた。


指先が、驚くほど優しい。


「……だが」


親指で、ほんの少しだけ頬を撫でる。


「そう言ってくれて、安心した。」


その声音だけは、本当に柔らかかった。


紗世は胸の奥がくすぐったくなって、小さく笑う。


「惟成って、案外すぐ自己嫌悪するよね。」


「お前のことになると、な。」


さらりと言われて、紗世はまた言葉に詰まる。


惟成はそんな紗世を見て、珍しく少しだけ笑った。


「だから」


そっと、紗世を抱き寄せる。


「次は、もう少し加減を覚える。」


「次、って。」


「……嫌か?」


紗世は一瞬黙って、それから困ったように笑った。


「……嫌じゃない。」


その答えに、惟成は紗世の髪に口づけた。


今度はただ、大切にするように。


先ほどまでの熱ではなく、静かな余韻のまま。


まだ薄暗い朝の中で、二人だけの時間だけが、ゆっくりと流れていた。




───朝


紗世は台盤所で米を炊いていた。


薪をくべ、窯の火を見ながら火加減を調節する。


いつもの朝の作業。


けれど──。


不意に、紗世の顔が真っ赤になった。


(昨夜……私、惟成と……!!)


思い出した瞬間、顔から火が出そうになる。


(夢じゃないよね……?)


そう思うと、自然と昨夜の光景が脳裏に浮かんだ。


蝋燭の淡い灯りに照らされた、いつもとは違う惟成の姿。


自分を見つめる優しい眼差し。


大切なものに触れるような、温かな手。


何度も自分の名を呼ぶ声。


(きゃあああああああっ!!)


紗世は慌てて顔を左右に振った。


(だめ!思い出しちゃだめ!!)


けれど、一度浮かんだ記憶は簡単には消えてくれない。


「……どうした?」


突然、背後から声が落ちた。


「ひゃっ!?」


紗世の肩が大きく跳ねる。


振り返ると、そこには惟成が立っていた。


そして、紗世の顔を見るなり眉を寄せる。


「……おい。大丈夫か?」


「だっ……大丈夫ぅ……」


紗世は慌てて盆で顔を隠した。


しかし、そのまま力が抜けるように、ゆるゆるとしゃがみ込んでしまう。


「いや、全然大丈夫ではないだろう」


惟成は呆れたように言った。


そして少し表情を曇らせる。


「……身体、辛いのか?」


「やあああああっ!!」


紗世の顔がさらに赤くなる。


「生々しいこと聞かないでよぉ!!」


勢いよく飛んできた盆を、惟成は反射的に受け止めた。


「な、生々しいって……。では、何と聞けばいいんだ。」


「聞かなくていいぃ……。」


紗世の声は、今にも消えそうだった。


惟成は少し考えた後、盆を紗世へ返した。


「……分かった。」


そして、いつもの落ち着いた声で続ける。


「朝餉は?もうできるのか?」


「うん……。」


「そうか。」


惟成は立ち上がる。


「今日もやることは多い。しっかり食べていくぞ。」


そう言って、紗世の頭をぽん、と軽く叩いた。


その仕草は、いつもの惟成だった。


冷静で。


少し不器用で。


でも、誰よりも紗世を気遣っている。


「……うん!」


紗世は顔を上げた。


(そうだよね。変わらない。私と惟成は、これからもずっと一緒。)


契りを交わしたから特別になったわけではない。


契りを交わす前から、惟成は惟成で、私は私だった。


そして、これからもきっとそうだ。


紗世は雨上がりの空を見上げた。


雲の切れ間から、青い空が覗いている。


「よっし!」


紗世は拳を握った。


「今日も頑張ろーー!!」


その明るい声が、朝の静かな邸に響いた。



─────


紗世は出来上がった朝餉を母屋へ運び、惟成の前へ膳を並べた。


「お待たせ。食べよ。」


「ああ。」


惟成は静かに手を合わせた。


「いただきます。」


紗世も向かいに座り、箸を取る。


その時だった。


膳の隅に、小さな短冊が一枚置かれていることに気付いた。


(……?)


不思議に思い、そっと裏返す。


そこには、流れるような筆跡で歌が記されていた。


『雨晴れて

雲間にひらく

朝空の

光のごとく

君を守らむ』


――雨が晴れ、雲間から朝の光が差すように。

これから先も、君を守り続けよう。


紗世の目が大きく見開かれた。


「これって……。」


(後朝の歌……。)


そっと顔を上げる。


惟成は紗世の視線に気付くと、どこか照れくさそうに目を逸らした。


「……俺は歌は得意ではない。気の利いた比喩も、美しい言い回しも思い浮かばん。」


ぶっきらぼうにそう言う横顔が、どこか落ち着かない。


その様子がおかしくて、そして何より愛おしかった。


(一緒に暮らしているのに……わざわざ歌を。)


そう思いながら、紗世はもう一度その歌へ目を落とした。


『君を守らむ』


その五文字が胸に染み込んでくる。


儀礼として交わされる後朝の歌ではない。


昨夜、契りを交わした惟成の覚悟、そのものだった。


それが何より嬉しかった。


思わず胸の前で短冊を抱きしめる。


惟成は何も言わず、ただ静かに朝餉を口へ運んでいた。


その横顔を見つめながら、紗世は小さく微笑んだ。


朝餉を終え、惟成が支度を始める。


その隙に紗世は、自分も一枚の短冊を取り出し、そっと惟成の荷物の上へ置いた。


そこには、丁寧な文字で返歌が綴られていた。


『朝日さす

光の道を

ともにゆき

末の世までも

君に添はなむ』


――朝日の照らす道を、これからはあなたと共に歩み、いつまでも寄り添って生きていきます。


惟成がそれに気付くのは、もう少し後のことだった。


────


惟成は佩刀を手に取り、支度を整えていた。


ふと、荷の上に一枚の短冊が置かれていることに気付く。


「……?」


手に取って裏返した。


そこには、見慣れた紗世の文字が並んでいた。


『朝日さす

光の道を

ともにゆき

末の世までも

君に添はなむ』


惟成は黙って歌を読み終える。


もう一度。


そして三度。


ゆっくりと読み返した。


「……そうか。」


思わず口元が緩む。


こんなにも真っ直ぐな歌を返されるとは思っていなかった。


末の世までも――。


その一節が胸に残る。


「紗世らしい。」


飾り立てた技巧はない。


だが、一文字一文字に嘘がない。


惟成は短冊を胸元へそっと差し入れた。


ちょうど心臓の上だった。


そこへ、朝餉の片付けを終えた紗世が戻ってくる。


「あれ? もう支度終わった?」


「ああ。」


惟成は何事もなかったように答える。


「じゃあ行こっか。」


「ああ。」


二人は並んで母屋を出た。


歩き出してしばらく。


惟成が不意に紗世の手を取る。


「え?」


「……返歌、読んだ。」


紗世の頬が一気に赤く染まる。


「わ、わざわざ言わなくてもいいのに……。」


「いや。」


惟成は歩みを止めた。


「嬉しかった。」


たった一言。


だが、その一言には、どんな長い歌よりも深い想いが込められていた。


紗世は照れくさそうに笑う。


「私も。」


二人は視線を合わせる。


そして、どちらからともなく笑みがこぼれた。


雨上がりの朝日が、讃岐の空を明るく照らしていた。

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