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第279話 雨夜の契り

虎徹が消えていった塀を眺めていると、次第に雨音が強くなっていった。


やがて、大粒の雨が屋根を激しく叩き始める。


「紗世。急いで蔀戸を閉めるぞ。」


「うん。」


二人は手分けをして、次々と蔀戸を閉めていった。


外の景色が少しずつ消えていく。


雨音だけが響く、閉ざされた母屋。


紗世が燭台に火を灯すと、頼りない小さな明かりが二人の姿を浮かび上がらせた。


先ほどまで虎徹の話をして笑っていたはずなのに。


女房も雑色も使用人すら居ない。邸には紗世と惟成だけ。静かな室内に二人きりになると、不思議なほど互いを意識してしまう。


紗世は自分の鼓動が、いつもより大きく聞こえる気がした。


(な、何か話さないと……。)


そう思うほど、言葉が出てこない。


先に口を開いたのは惟成だった。


「───紗世。」


「ひゃあいっ!」


思わず飛び出した返事に、惟成が目を瞬かせる。


そして、珍しく小さく吹き出した。


「……なんだ、その返事は。」


「だ、だって急に呼ぶから……。」


惟成は肩を震わせて笑っていた。


そんな姿を見るのが、紗世には少し嬉しかった。


いつも冷静で、何事にも動じない。


感情を表に出すことも少ない。


そんな惟成が、今は年相応の少年のように笑っている。


その時だった。


惟成の手が、ゆっくりと紗世の頬に触れた。


「……良かった。」


「え?」


「生きている。」


その声は、いつもの惟成とは違っていた。


「昼間のことを思い出した。岩が落ちてくる瞬間……もし虎徹がいなかったら、と。」


紗世は気付いた。


頬に触れている惟成の手が、僅かに震えていることに。


「紗世を……目の前で失っていたかもしれないと思うと……。」


惟成は目を伏せた。


「怖かった。」


その言葉に、紗世の胸が締め付けられる。


惟成がそんな弱さを見せることなど、今までなかった。


紗世はそっと、その手に自分の手を重ねた。


「いるよ。」


惟成が顔を上げる。


「私、ちゃんとここにいる。」


「……。」


「ほら。」


紗世は惟成の手を自分の頬へ押し当てた。


「温かいでしょ?」


「ああ……。」


惟成の目が、少しだけ揺れた。


「温かい。」


紗世は微笑んだ。


そして、ゆっくりと惟成を抱きしめる。


「私、生きてるよ。」


その瞬間。


惟成の腕が紗世の背に回った。


強く。


今まで抑えていた感情を吐き出すように。


「……ああ!良かった……!生きてる!……生きてる……!!」


惟成は紗世を強く抱き締めた。惟成が珍しく感情を声に乗せていた。


「怖かった……本当に……怖かったんだ……。」


紗世が小さく笑った。


「ふふ。私が讃岐に来た時と同じ事言ってる。」


紗世が讃岐で惟成と再会を果たした日、惟成に抱きついて泣きながら言った言葉──


『良かった……生きてた……!生きてた!! 本当に良かったぁ……!』


「……俺とお前は、お互いの存在が無ければダメだという事だな…。」


惟成も微かに笑った。


そして、ゆっくりと顔を近付け、唇を重ねた。


長く深い口付け。


何度も。何度も。


「紗世。」


「ん?」


「………今夜は、お前を感じていたい。」


紗世の胸が高鳴った。


「嫌か?」


「ずるいよ、その聞き方。」


惟成の胸に顔を埋めた。


「何でだ?」


「嫌なわけない。」


「良いのか?」


惟成が紗世を少し離し、紗世の瞳を見つめた。


「……良いよ。」


見つめ合ったまま答えた。


「意味、わかってるのか?」


掠れた声。


「分かってる。」


揺るがない返事。


「引き返すなら今の内だぞ。」


そう言いながらも、ゆっくりと紗世を引き寄せた。


「引き返すなんて、最初から考えてないよ。」


紗世は惟成の頬を両手で包み込んだ。


「私だって惟成を感じていたいの───。」


そして、紗世の方から口付けをした。


二人の熱を帯びた視線が絡み合う。


「……紗世の寝所へ行くか。ここは板張りで体が痛いだろう。」


「きゃっ……!」


惟成は紗世を抱き上げ、塗籠の板戸を開けた。


そして、板戸を閉めると、蝋燭の灯りが大きく揺れた。



─────


まだ夜が続いていた。蝋燭の火も小さくなり、塗籠の中は薄暗かった。


まだ雨音だけが聞こえている。静かな刻。


惟成はゆっくりと目を開けた。


腕の中に、柔らかな温もりがあった。


紗世だった。


自分の胸に頬を寄せ、無防備に眠っている。


昨夜、何度もその名を呼び、腕の中で震えていた女が、今は安心しきったように自分に身を預けている。


惟成はしばらく、黙ったまま紗世を見つめていた。


長い睫毛。


少し乱れた髪。


薄く開いた唇。


寝息のたびに、胸元が小さく上下する。


その一つ一つが、信じられないほど愛おしかった。


「……本当に。」


掠れた声が、自分でも驚くほど優しかった。


昨夜のことが、静かに胸によみがえる。


触れた時の震えも。縋るように自分の背中にしがみついていた指も。名前を呼ぶ声も。


思い出しただけで、惟成は小さく息を吐いた。


その時、紗世がわずかに眉を寄せた。


「……ん……」


かすかな声に、惟成の表情が変わる。


「起こしたか。」


囁くように言いながら、惟成は紗世の頬にかかった髪をそっと耳にかけた。


紗世はまだ眠たげなまま、うっすら目を開けた。


「……惟成……?」


寝ぼけた声だった。


いつもの紗世より、何倍も幼く聞こえる。


惟成の胸の奥が、静かに締めつけられる。


「まだ寝ていろ。」


低く言って、額に口づける。


紗世は目を細めた。


「もう朝?」


「いや、まだ早い。」


「そう……。」


安心したように呟いて、紗世はまた惟成の胸に顔を埋めた。


その拍子に、昨夜つけた薄い痕が白い肩に覗く。


惟成は息を止めた。


自分が残したものだった。


昨夜、理性を失うほど求めた証が、紗世の肌に残っている。


それを見た瞬間、胸の奥に昨夜とは別の熱が静かに灯った。


けれど同時に、惟成は眉を寄せる。


「……身体、痛まないか。」


紗世は胸元に顔を埋めたまま、少しだけ笑った。


「ちょっとだけ。」


「すまなかった。」


その一言に、紗世が顔を上げる。


「どうして惟成が謝るの?」


「……」


惟成は少し目を逸らした。


「お前を失うかもしれないと思った後だったからな。自分でも驚くほど、余裕がなかった。」


珍しく素直な言葉に、紗世は柔らかく笑った。


「惟成でも、そんなことあるんだ。」


「俺を何だと思っている。」


「何があっても冷静な人。」


珍しく気まずそうに目を逸らす惟成に、

紗世はくすりと笑った。


「惟成でも、そんな顔するんだ。」


「笑うな。」


「だって。」


紗世は小さく笑いながら、惟成の胸に手を置いた。


「優しかったよ。」


その一言で、惟成の視線が戻る。


紗世はまだ少し眠そうなまま、惟成を見上げていた。


頬はうっすら赤く、唇もまだ熱を残していて、その無防備な姿が、あまりにも危うい。


惟成はゆっくりと息を吐いた。


「……紗世。」


「なに?」


「それ以上、そういう顔をするな。」


「え?」


意味が分からず首を傾げる。


その仕草すら、惟成には毒だった。


惟成は片手で紗世の頬を包み、親指でそっと唇に触れた。


昨夜、何度も触れた場所。


紗世の呼吸が、小さく揺れる。


「惟成……?」


戸惑った声。


それでも、紗世は逃げない。


惟成は目を伏せ、額をそっと重ねた。


「……もう少しだけ。」


「それ、昨日も聞いた。」


「覚えてるのか。」


「うん。」


紗世が小さく笑う。


その笑みが、最後だった。


惟成はたまらず、紗世をもう一度抱き寄せた。


「……惟成?」


「お前が悪い。」


「え、なんで。」


「可愛すぎる。」


真顔で言われて、紗世の頬が一気に赤くなる。


惟成の唇が紗世の首筋に落ちた。


「ちょっ……待って、さっき身体気遣ってくれてたのに。」


「気遣ってる。」


「全然そう見えな——」


最後まで言わせず、惟成は唇を重ねた。


今度は昨夜より静かで、けれどずっと甘い口づけだった。


まだ明けきらない夜、二人だけの時間は、もう少しだけ静かに続いていった。

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