第278話 雨夜の忠告
───惟成達の仮住まい
「ああぁぁぁぁ〜〜〜! 疲れたああああ!!!」
仮住まいへ戻るなり、惟成は母屋へ上がって、そのまま畳へどさりと身を投げ出した。
その姿を見て、紗世は思わず吹き出す。
「何だ。」
惟成が片眉を上げる。
「ううん。惟成もそんなふうに『疲れた〜』なんて言うんだなって。」
紗世は肩を揺らして笑った。
いつも冷静沈着で、感情を表へ出すことは少ない。声を荒らげることも滅多にない惟成が、年相応の少年らしく力を抜いている姿は、どこか新鮮だった。
紗世はその傍へしゃがみ込む。
「お疲れさま。お茶、淹れてこようか?」
「頼む。」
「うん。」
紗世はぱたぱたと廊下を戻っていった。
惟成は狩衣を脱ぎ、単衣と指貫だけの楽な姿になると、仰向けに寝転び、庭へ視線を向けた。
雨が降り始めていた。
しとしとと屋根を打つ雨音が、屋敷の外の世界を少しずつ遠ざけていく。
(追捕使としての任も、終わりが見えてきたな……。)
片手を天井へかざす。
讃岐へ下向したのは昨年の九月下旬。今は六月下旬。
追捕使としては決して長い任ではない。
だが、この九か月で得たものは、都で何年過ごしても学べなかったことばかりだった。
地形や潮流を踏まえた戦術。海上戦の指揮。捕虜解放のための交渉。
己の判断一つで命が失われる責任。
罪を犯した者にも、それぞれ理由があるという現実。
そして、武官もまた政の一部なのだということ。
どれも都では知り得なかった学びだった。
そんなことを考えていると、紗世がお茶を運んできた。
「あ、惟成ずるーい。」
「何がずるい。」
「もう上衣脱いでるー。私も蒸し暑いのに。」
「脱げばいいだろ。」
「え? いいの?」
「単衣は濡れてないし透ける心配もない。この屋敷には俺とお前しかいない。」
呆れたように言われ、紗世の表情がぱっと明るくなる。
「へへっ。やった。」
嬉しそうに水干を脱ぎ、惟成と同じように単衣と指貫姿になる。
「ふぅ……ちょっと涼しい。」
その姿を横目で見ながら、惟成は湯呑みに口をつけた。
雨は静かに降り続いている。
「今日の会議の時の惟成さ。」
「うん?」
「すっごく格好良かったぁ。」
危うく茶を吹きそうになり、惟成は眉をひそめた。
「何だ、いきなり。」
「だって、いつもは武官として戦ってる姿を見ることが多いでしょ? でも今日は会議を仕切って、みんなを納得させて、ちゃんと話をまとめてて……すっごく格好良かった。」
紗世は心から感心したように笑う。
「……何だ、『ちゃんと話をまとめてて』って。」
「だって普段の惟成って、『そうか』とか『当然だ』とか短い返事ばっかりじゃん。あんなに長く喋ってる姿、想像したことなかったもん。」
「何が言いたい。」
「意外な一面が見られたなぁって。それも、すごく格好いい一面。」
紗世はにっこりと笑った。
惟成も小さく息を吐く。
「俺も讃岐へ来て、お前の意外な一面は随分見せられた。」
「え?」
「しかも毎回、ド肝を抜かれる。寿命が縮むようなやつばかりだ。」
「えぇ……。そんなことないもん。」
紗世は頬を膨らませ、ぷいと横を向く。
その拍子に、右肩のあたりで単衣がわずかにずれた。
覗いた肌に、どす黒い痣が見える。
惟成の表情が変わった。
「紗世。」
そう呼ぶと同時に、惟成は紗世の肩へ手を伸ばし、単衣の襟をわずかに開いた。
「きゃあああああっ!!」
パァンッ!!
次の瞬間、紗世の平手打ちが惟成の頬へ見事に炸裂した。
「いきなり何するのよ!! 胸まで見えるところだったじゃない!! 変態! バカッ!!」
「違う。」
頬を押さえながらも、惟成は真顔だった。
「そういうつもりじゃない。」
紗世は涙目のまま睨みつける。
「だったら何なのよ!」
「右肩だ。」
惟成は低く言った。
「お前、怪我してるのか。」
「……え?」
紗世は自分の右肩へ視線を落とす。
そっと襟を開いてみると、肩から腕にかけて、広い範囲が黒紫色に変色していた。
「……うわ。」
本人ですら、その時初めて気付いたのだった。
「お前、これ……いつ怪我したんだ?」
惟成は紗世の腕を取り、単衣の袖を肩口までそっとたくし上げた。
肩から腕にかけて、黒紫色の内出血が広い範囲に広がっている。
「え……これ……いつだろ?」
「これだけの内出血だぞ。ぶつけた時は相当痛かったはずだ。覚えていないわけがあるか。」
そう言われて、紗世はしばらく首を傾げていたが、不意にはっと顔を上げた。
「あっ! あれだ! 海辺の納屋に閉じ込められた時!」
「閉じ込められて、どうしたらこんな怪我になる。」
「両手足を縛られてたでしょ? だから体当たりで板戸を開けようとして頑張ったの!」
「『頑張った』ではないだろう。」
惟成は深く項垂れ、小さく溜め息をついた。
そして紗世の腕をそっと持ち上げる。
「痛くないか?」
「うん。押されたりしなければ平気。」
「腫れているわけでも傷口があるわけでもない……。手当てのしようがないな。」
「だーいじょうぶだって!」
紗世が笑って見せた、その時だった。
〈どれ、我に見せてみろ。〉
聞いた事のある声が頭上から降ってくる。
見上げると、白猫の姿をした虎徹が塀の上から軽やかに飛び降りてきた。
「虎徹!!! 虎徹ーーーっ!!」
紗世は勢いよく虎徹を抱き上げ、そのままぎゅっと抱き締めた。
「虎徹! すごい!! それに喋れるんだね!! すごいすごい!!」
嬉しさのあまり、抱き締めたまま体をぶんぶん横へ振る。
〈さ……紗世……。少し力を緩めろ。苦しい。〉
「あっ、ごめん!」
慌てて腕を緩めると、虎徹は紗世の右腕へ前足をぽんと添えた。
すると、黒紫色だった痣が雪解けのようにすっと薄れ、やがて白く滑らかな肌へ戻っていく。
「えっ!? 何これ!? 虎徹が治してくれたの!? こんなこともできるの!? すごすぎでしょ!!」
紗世は興奮した様子で自分の腕を何度も見返した。
惟成も虎徹へ視線を向ける。
「虎徹……もしかして賀茂祭の時、俺の肩も治したか?」
昨年の賀茂祭。
惟成と兼成が葵の上の牛車を支えた際、惟成は肩を痛めていた。
四条邸で紗世に手当を受けていた時、虎徹が肩へ前足を置いた瞬間、不思議と痛みが引いたことを思い出す。
〈……さて、どうだったかな。〉
虎徹は意味ありげに口元を緩めた。
「えっ、待って! 惟成、虎徹が妖だって知ってたの!?」
「……まあな。」
「いつから?」
「昨年の春、四条邸で皆で花見をした時だ。」
「えーー!? かなり前じゃん! 他に知ってる人は?」
「俺と陰陽頭様だけだ。」
「なんで教えてくれなかったの!?」
惟成はちらりと虎徹を見る。
虎徹は「余計なことは言うな」とでも言いたげに目を細めていた。
「……聞かれなかったし、言う必要もないと思った。」
「自分の飼い猫について『この子、妖だと思う?』なんて聞く人いる!? 必要なくても教えてよ!」
紗世は頬を膨らませながら再び虎徹を抱き上げた。
「虎徹って何の妖なの?」
〈野干だ。〉
「やかん?」
〈狐に似ておるが狐ではない。まあ、大陸から伝わった妖だ。〉
「どんな妖なの?」
〈どんな、と言われてもな。人に害を成すでもない。災を起こすでもない。ただ……長く生きているだけだ。〉
「じゃあ、このままずっと一緒に暮らせるね。」
〈……?〉
「だって、人に害を与える妖だったら、どうしたら一緒に暮らせるか考えなきゃいけないでしょ。でも虎徹はそうじゃない。だったら今まで通り、一緒にいられるね。」
紗世は迷いなく笑った。
虎徹は静かに紗世を見つめる。
そうだった。
この娘は、自分の損得では動かない。
穏やかに、誰かと一緒に生きていけることを、何より幸せと思う娘だった。
〈……そうだな。〉
虎徹は静かに目を細めた。
「ねえ虎徹。誰も見てない時くらいは、本当の姿になってもいいんだからね?」
「……お前は単に、あの毛並みに顔を埋めたいだけだろう。」
惟成が呆れたように言う。
「あははー。バレた?」
紗世は照れ笑いを浮かべたあと、ふっと表情を和らげ、虎徹の瞳をまっすぐ見つめた。
「今日は本当にありがとう。虎徹が来てくれなかったら、私……。」
昼間の光景が脳裏をよぎる。
岩が崩れ落ち、自分へ迫ってきた、あの一瞬。
「私……死んでた。間違いなく、死んでたよ。」
虎徹を抱く腕が小さく震えた。
惟成も静かに頭を下げる。
「虎徹。俺からも礼を言う。紗世を助けてくれて、ありがとう。」
〈我も紗世は死なせたくなかった。それだけだ。礼はいらぬ。〉
虎徹は紗世の腕からするりと降り、小雨の降る塀の上へ飛び乗った。
〈……だが一つだけ忠告しておこう。人の寿命は我ら妖より遥かに短い。こうしたいと思ったなら、迷うな。あの時そうしていれば、と後悔することになるぞ。〉
そう言って、意味ありげに笑う。
「虎徹!? 雨なのにどこ行くの!?」
〈妖とて気は使う。今日は別の所で休む。ではな。〉
白い影は闇夜へ溶けるように消えていった。
「えぇ〜……虎徹、最後のあれ何? 惟成、分かった?」
紗世は首を傾げて惟成を見上げる。
惟成は虎徹が消えた闇をしばらく見つめたまま、小さく肩を竦めた。
「……さあな。」




