↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
278/330

第278話 雨夜の忠告

───惟成達の仮住まい


「ああぁぁぁぁ〜〜〜! 疲れたああああ!!!」


仮住まいへ戻るなり、惟成は母屋へ上がって、そのまま畳へどさりと身を投げ出した。


その姿を見て、紗世は思わず吹き出す。


「何だ。」


惟成が片眉を上げる。


「ううん。惟成もそんなふうに『疲れた〜』なんて言うんだなって。」


紗世は肩を揺らして笑った。


いつも冷静沈着で、感情を表へ出すことは少ない。声を荒らげることも滅多にない惟成が、年相応の少年らしく力を抜いている姿は、どこか新鮮だった。


紗世はその傍へしゃがみ込む。


「お疲れさま。お茶、淹れてこようか?」


「頼む。」


「うん。」


紗世はぱたぱたと廊下を戻っていった。


惟成は狩衣を脱ぎ、単衣と指貫だけの楽な姿になると、仰向けに寝転び、庭へ視線を向けた。


雨が降り始めていた。


しとしとと屋根を打つ雨音が、屋敷の外の世界を少しずつ遠ざけていく。


(追捕使としての任も、終わりが見えてきたな……。)


片手を天井へかざす。


讃岐へ下向したのは昨年の九月下旬。今は六月下旬。


追捕使としては決して長い任ではない。


だが、この九か月で得たものは、都で何年過ごしても学べなかったことばかりだった。


地形や潮流を踏まえた戦術。海上戦の指揮。捕虜解放のための交渉。


己の判断一つで命が失われる責任。


罪を犯した者にも、それぞれ理由があるという現実。


そして、武官もまた政の一部なのだということ。


どれも都では知り得なかった学びだった。


そんなことを考えていると、紗世がお茶を運んできた。


「あ、惟成ずるーい。」


「何がずるい。」


「もう上衣脱いでるー。私も蒸し暑いのに。」


「脱げばいいだろ。」


「え? いいの?」


「単衣は濡れてないし透ける心配もない。この屋敷には俺とお前しかいない。」


呆れたように言われ、紗世の表情がぱっと明るくなる。


「へへっ。やった。」


嬉しそうに水干を脱ぎ、惟成と同じように単衣と指貫姿になる。


「ふぅ……ちょっと涼しい。」


その姿を横目で見ながら、惟成は湯呑みに口をつけた。


雨は静かに降り続いている。


「今日の会議の時の惟成さ。」


「うん?」


「すっごく格好良かったぁ。」


危うく茶を吹きそうになり、惟成は眉をひそめた。


「何だ、いきなり。」


「だって、いつもは武官として戦ってる姿を見ることが多いでしょ? でも今日は会議を仕切って、みんなを納得させて、ちゃんと話をまとめてて……すっごく格好良かった。」


紗世は心から感心したように笑う。


「……何だ、『ちゃんと話をまとめてて』って。」


「だって普段の惟成って、『そうか』とか『当然だ』とか短い返事ばっかりじゃん。あんなに長く喋ってる姿、想像したことなかったもん。」


「何が言いたい。」


「意外な一面が見られたなぁって。それも、すごく格好いい一面。」


紗世はにっこりと笑った。


惟成も小さく息を吐く。


「俺も讃岐へ来て、お前の意外な一面は随分見せられた。」


「え?」


「しかも毎回、ド肝を抜かれる。寿命が縮むようなやつばかりだ。」


「えぇ……。そんなことないもん。」


紗世は頬を膨らませ、ぷいと横を向く。


その拍子に、右肩のあたりで単衣がわずかにずれた。


覗いた肌に、どす黒い痣が見える。


惟成の表情が変わった。


「紗世。」


そう呼ぶと同時に、惟成は紗世の肩へ手を伸ばし、単衣の襟をわずかに開いた。


「きゃあああああっ!!」


パァンッ!!


次の瞬間、紗世の平手打ちが惟成の頬へ見事に炸裂した。


「いきなり何するのよ!! 胸まで見えるところだったじゃない!! 変態! バカッ!!」


「違う。」


頬を押さえながらも、惟成は真顔だった。


「そういうつもりじゃない。」


紗世は涙目のまま睨みつける。


「だったら何なのよ!」


「右肩だ。」


惟成は低く言った。


「お前、怪我してるのか。」


「……え?」


紗世は自分の右肩へ視線を落とす。


そっと襟を開いてみると、肩から腕にかけて、広い範囲が黒紫色に変色していた。


「……うわ。」


本人ですら、その時初めて気付いたのだった。


「お前、これ……いつ怪我したんだ?」


惟成は紗世の腕を取り、単衣の袖を肩口までそっとたくし上げた。


肩から腕にかけて、黒紫色の内出血が広い範囲に広がっている。


「え……これ……いつだろ?」


「これだけの内出血だぞ。ぶつけた時は相当痛かったはずだ。覚えていないわけがあるか。」


そう言われて、紗世はしばらく首を傾げていたが、不意にはっと顔を上げた。


「あっ! あれだ! 海辺の納屋に閉じ込められた時!」


「閉じ込められて、どうしたらこんな怪我になる。」


「両手足を縛られてたでしょ? だから体当たりで板戸を開けようとして頑張ったの!」


「『頑張った』ではないだろう。」


惟成は深く項垂れ、小さく溜め息をついた。


そして紗世の腕をそっと持ち上げる。


「痛くないか?」


「うん。押されたりしなければ平気。」


「腫れているわけでも傷口があるわけでもない……。手当てのしようがないな。」


「だーいじょうぶだって!」


紗世が笑って見せた、その時だった。


〈どれ、我に見せてみろ。〉


聞いた事のある声が頭上から降ってくる。


見上げると、白猫の姿をした虎徹が塀の上から軽やかに飛び降りてきた。


「虎徹!!! 虎徹ーーーっ!!」


紗世は勢いよく虎徹を抱き上げ、そのままぎゅっと抱き締めた。


「虎徹! すごい!! それに喋れるんだね!! すごいすごい!!」


嬉しさのあまり、抱き締めたまま体をぶんぶん横へ振る。


〈さ……紗世……。少し力を緩めろ。苦しい。〉


「あっ、ごめん!」


慌てて腕を緩めると、虎徹は紗世の右腕へ前足をぽんと添えた。


すると、黒紫色だった痣が雪解けのようにすっと薄れ、やがて白く滑らかな肌へ戻っていく。


「えっ!? 何これ!? 虎徹が治してくれたの!? こんなこともできるの!? すごすぎでしょ!!」


紗世は興奮した様子で自分の腕を何度も見返した。


惟成も虎徹へ視線を向ける。


「虎徹……もしかして賀茂祭の時、俺の肩も治したか?」


昨年の賀茂祭。


惟成と兼成が葵の上の牛車を支えた際、惟成は肩を痛めていた。


四条邸で紗世に手当を受けていた時、虎徹が肩へ前足を置いた瞬間、不思議と痛みが引いたことを思い出す。


〈……さて、どうだったかな。〉


虎徹は意味ありげに口元を緩めた。


「えっ、待って! 惟成、虎徹が妖だって知ってたの!?」


「……まあな。」


「いつから?」


「昨年の春、四条邸で皆で花見をした時だ。」


「えーー!? かなり前じゃん! 他に知ってる人は?」


「俺と陰陽頭様だけだ。」


「なんで教えてくれなかったの!?」


惟成はちらりと虎徹を見る。


虎徹は「余計なことは言うな」とでも言いたげに目を細めていた。


「……聞かれなかったし、言う必要もないと思った。」


「自分の飼い猫について『この子、妖だと思う?』なんて聞く人いる!? 必要なくても教えてよ!」


紗世は頬を膨らませながら再び虎徹を抱き上げた。


「虎徹って何の妖なの?」


〈野干だ。〉


「やかん?」


〈狐に似ておるが狐ではない。まあ、大陸から伝わった妖だ。〉


「どんな妖なの?」


〈どんな、と言われてもな。人に害を成すでもない。災を起こすでもない。ただ……長く生きているだけだ。〉


「じゃあ、このままずっと一緒に暮らせるね。」


〈……?〉


「だって、人に害を与える妖だったら、どうしたら一緒に暮らせるか考えなきゃいけないでしょ。でも虎徹はそうじゃない。だったら今まで通り、一緒にいられるね。」


紗世は迷いなく笑った。


虎徹は静かに紗世を見つめる。


そうだった。


この娘は、自分の損得では動かない。


穏やかに、誰かと一緒に生きていけることを、何より幸せと思う娘だった。


〈……そうだな。〉


虎徹は静かに目を細めた。


「ねえ虎徹。誰も見てない時くらいは、本当の姿になってもいいんだからね?」


「……お前は単に、あの毛並みに顔を埋めたいだけだろう。」


惟成が呆れたように言う。


「あははー。バレた?」


紗世は照れ笑いを浮かべたあと、ふっと表情を和らげ、虎徹の瞳をまっすぐ見つめた。


「今日は本当にありがとう。虎徹が来てくれなかったら、私……。」


昼間の光景が脳裏をよぎる。


岩が崩れ落ち、自分へ迫ってきた、あの一瞬。


「私……死んでた。間違いなく、死んでたよ。」


虎徹を抱く腕が小さく震えた。


惟成も静かに頭を下げる。


「虎徹。俺からも礼を言う。紗世を助けてくれて、ありがとう。」


〈我も紗世は死なせたくなかった。それだけだ。礼はいらぬ。〉


虎徹は紗世の腕からするりと降り、小雨の降る塀の上へ飛び乗った。


〈……だが一つだけ忠告しておこう。人の寿命は我ら妖より遥かに短い。こうしたいと思ったなら、迷うな。あの時そうしていれば、と後悔することになるぞ。〉


そう言って、意味ありげに笑う。


「虎徹!? 雨なのにどこ行くの!?」


〈妖とて気は使う。今日は別の所で休む。ではな。〉


白い影は闇夜へ溶けるように消えていった。


「えぇ〜……虎徹、最後のあれ何? 惟成、分かった?」


紗世は首を傾げて惟成を見上げる。


惟成は虎徹が消えた闇をしばらく見つめたまま、小さく肩を竦めた。


「……さあな。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。