第277話 終わる者、始まる者
やがて食事が一段落した頃、紗世は軽く手を叩いた。
「さて、皆さん。うどんと素麺を召し上がっていただきましたが、いかがでしたか。」
「旨かった!」
真っ先に答えたのは、やはり大伴だった。
「こんな旨いものは初めて食べた!」
「しかし……。」
三宅が少し困ったような顔になる。
「これほどの味なら、米より高価なのではないか。」
紗世は首を横へ振った。
「うどんの材料は、小麦と塩、それに水だけです。」
「それだけ……?」
「本当に、それだけなのか。」
「本当に、それだけです。」
紗世は力強く頷く。
「讃岐は小麦も塩も豊富です。他の国より作りやすい土地なのだから、その恵みを生かした新しい主食を作ればいいと思ったんです。」
「しかし、作ると言っても容易ではあるまい。」
経房が呟くと、惟成が静かに後を継いだ。
「もう、その仕組みは出来上がっています。」
惟成は製麺所の者達へ静かに視線を向けた。
「元々、海賊は六十名近くいた。その者達の得手不得手を見極め、紗吉が仕事ごとに人を振り分けたのだ。」
そう言って一人ひとりを見回す。
「私が製麺所を視察した時には、うどんや素麺を作る工程は既に完成していた。誰が何をするかが定まり、無駄なく動けるよう工夫されている。先ほども、この人数分の食事を突然用意してほしいと頼んだにもかかわらず、短い時間で支度が整っただろう。それだけの生産力が、すでに備わっているということだ。」
経房は感心したように息を漏らした。
「なるほど……。」
惟成は一束の麺を手に取り、ゆっくりと続ける。
「そして私は、このうどんと素麺は、朝廷へ献上するに足る品になると考えている。」
「献上品ですと?」
豪族の一人が思わず身を乗り出した。
「まず、このうどんは都には存在しない。紗吉がこの讃岐で生み出した、新しい食べ物だ。」
「讃岐で初めて作った……?」
「では、私達は都の貴族や、主上よりも先にうどんを口にしたってことか……。」
ざわめきが広がる。
「さらに、長く保存できるよう加工することにも成功している。」
「長期保存……。」
「都まで運ぶ間に傷まぬということか。」
「その通りだ。」
惟成は静かに頷いた。
「都から遠い国の献上品は、道中で傷まぬことが何より重要だ。その条件を、このうどんと素麺は満たしている。」
すると惟成の後ろから、紗世がひょこりと顔を覗かせた。
「それとですね!」
皆の視線が集まる。
「うどんも素麺も白くて長い食べ物ですよね。だから『白髪になるまで長生きできますように』っていう長寿祈願の意味を持たせたら、お祝い事なんかでも喜ばれると思うんです!」
部屋の者達は顔を見合わせた。
「なるほど……。」
「確かに縁起が良い。」
「祝いの席にも使えるな。」
経房も大きく頷いた。
「美味く、保存が利き、さらに縁起まで良いとなれば、献上品として申し分ない。」
惟成は黒鷲へ視線を向ける。
「この者達は、もう海賊ではない。」
部屋の空気が静まる。
「これからは、讃岐の新たな特産品を作る職人だ。」
黒鷲はその言葉を噛み締めるように目を伏せ、小さく息を吐いた。
◇
食事が片付けられると、広間は再び会議の場へ戻った。
惟成は居並ぶ者達を見渡し、静かに口を開く。
「では、本日最後の話をする。」
経房、大伴、三宅、そして讃岐の豪族達へ順に視線を向ける。
「追捕使として私に残された役目は四つ。讃岐守の捕縛、明日の海賊船押収、海賊達への処分の決定、そして海賊追捕の最終報告書をまとめることだ。」
誰も口を挟まない。
「その報告書を朝廷へ提出した日をもって、この追捕本営は解体となる。」
「承知いたしました。」
一同が静かに頭を下げる。
惟成は今度は黒鷲達へ向き直った。
「製麺所については、改めて讃岐国の役人を同行させ視察を行う。その結果を踏まえ、製麺所の運営方法、お前達への報酬、生活の基盤を整えていく。」
少し間を置いて続けた。
「その際、最も重んじるべきは、この者達が職人として暮らしていけることだ。二度と海へ戻る必要のないよう、仕組みを整えよ。」
「はっ。」
黒鷲達は深く頭を下げた。
惟成は最後に経房を見た。
「そして、これは讃岐国政の話であり、本来なら私が口を挟む立場ではない。」
部屋が静まり返る。
「だが、讃岐守の不正は必ず明らかにせねばならない。そのためには、元海賊達の証言も必要になる。」
黒鷲達へ向き直る。
「その時は、力を貸してくれ。」
黒鷲はゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「命ある限り、協力します。」
その声に続くように、製麺所の者達も一斉に頭を垂れる。
惟成は満足そうに頷いた。
「今日はここまでだ。皆、遅くまでご苦労だった。」
「はっ!」
力強い返事が広間いっぱいに響く。
長く続いた会議はようやく幕を閉じた。
だが、それは海賊との戦いの終わりであると同時に、讃岐が新たな歩みを始める最初の一日でもあった。
──────
その男は、一人の従者を引き連れ、雨雲の下を馬で駆けていた。
「早く……早く讃岐を出ねば……!」
讃岐守・中原為遠だった。
馬蹄がぬかるみを蹴り上げる。
焦燥に駆られるまま港へ辿り着くと、中原は馬から飛び降りた。
「今日、偽装船として使う予定だった船が二隻入港しているはずだ! それに乗って讃岐を出る! 探せ!」
従者の大江が、言いにくそうに頭を下げた。
「それなのですが……その二隻は昼間、港が封鎖された際、『目的不明の船』として追捕使に押収されました。現在は本営の管理下に置かれております。」
ダンッ――!
中原は港の木柵を拳で殴りつけた。
「くそっ……! あの追捕使め! 余計な真似をしおって……!」
その時、ぽつり、と頬に冷たい雫が落ちた。
やがて雨粒は次第に数を増し、港を濡らしていく。
「大江!」
「はっ。」
「讃岐を出られるなら、小舟でも漁船でも構わん! 金はいくら積んでもよい! 船を出せる者を探してこい!」
「し、しかし……雨も強くなってまいりました。この後は海も荒れると聞いております。この天候で船を出す者は、おそらく……。」
「雨など構うものか!」
中原は怒鳴りつけた。
「金を握らせろ! 金さえ積めば、人は命など惜しまぬ! 早く行け!」
「……はっ!」
大江は深く頭を下げると、降りしきる雨の中へ駆け出していった。
その姿を見送りながら、中原は港の小屋の軒先へ身を寄せる。
雨脚はさらに強まり、沖には白波が立ち始めていた。
「なぜだ……。」
ぽつりと呟く。
「なぜ私が捕まらねばならん。私は、先代讃岐守から受け継いだ仕組みを、そのまま引き継いだだけではないか……。」
力なく笑う。
「皆そうしてきた。代々そうしてきた。それなのに、なぜ私だけが……。」
雨音だけが答えるように降り続いていた。
中原は深く息を吐く。
「とにかく讃岐を出ねば……。」
しかし、その言葉はすぐに途切れた。
「……出て、どこへ行く?」
都か。
いや、すでに手配が回っていれば都へ入ることすらできない。
「中納言様へ送った文は……。」
ふと希望を見出すように呟く。
「返書が届けば、身を隠す場所くらいは……。」
だが、その希望も自ら打ち消した。
「……いや。」
静かに首を振る。
「返書など来るはずがない。返事を書けば、私との繋がりを疑われる。あのお方ほどの御仁が、そのような危うい橋を渡るものか。」
乾いた笑いが漏れる。
「私は……見捨てられるのだ。」
その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
「朝廷にも、中納言様にも、この世そのものにも……。」
長い沈黙が落ちる。
やがて、中原はゆっくりと顔を上げた。
その目に、先ほどまでの狼狽はなかった。
代わりに、何かを決めた者だけが宿す冷たい光が浮かんでいた。
「そうか……。」
口元がゆっくりと歪む。
「捨てればよいのだ。」
その笑みは、雨よりも冷たかった。
「中原為遠という男を。」
懐には、有り金をすべて持ち出してある。
名を捨て、身分を捨て、過去を捨てる。
そうすれば、追われるのは『讃岐守・中原為遠』だけだ。
「そうだ……。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「中原為遠は、今夜ここで死ぬ。」
雨音の向こうで、小さく笑う声だけが港に残った。




