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第276話 ひとつの膳

紗吉が静かに立ち上がると、その姿を見た黒鷲以外の製麺所の男達と大伴が、どこか落ち着かない様子でそわそわし始めた。


「何だ、大伴殿。どうされた。」


三宅が不思議そうに横目で尋ねる。


「え? ああ、いや……何でも。」


大伴は歯切れ悪く答えた。


その様子を見た惟成は、小さく息を吐く。


「後で話そうと思っていたが……どうやら気が散っている者が多いらしい。少々話は逸れるが、海賊達の今後について話す前に、一つ伝えておく。」


ずぶ濡れになった紗吉の姿を見ていない三宅や経房、豪族達は顔を見合わせ、首を傾げた。


惟成は静かに口を開く。


「……紗吉は、女だ。以上。」


会議の間が、水を打ったように静まり返った。


誰もがその言葉の意味を理解できず、ただ惟成を見つめる。


そして次の瞬間――


「「「えええええええええーーーーっっっ!!?」」」


本営中に響き渡るような叫び声が上がった。


「いやいやいやいやいやいや!! 源様! 以上じゃないでしょう!!」


真っ先に我へ返った経房が、勢いよく惟成へ詰め寄る。


惟成は僅かに視線を逸らしながら言った。


「それ以上に何か言うことがあるか?」


「ありますとも! 山ほどあります! そもそも紗吉とは、一体どこの誰なのです!?」


「どこの誰って……。」


惟成が視線を逸らしたまま答える。


「都は左京四条に住む従五位、藤原兼成検非違使尉様の娘だ。」


その場の空気が凍りついた。


経房、三宅、大伴が揃って顔を引き攣らせる。


「藤原兼成殿と言えば……前任の和泉守ではないか。」


「権力者に煙たがられ、都へ戻れぬよう十二年も和泉守を務めさせられたという……。」


「それでも和泉国を豊かにし、税収を飛躍的に伸ばした名守だ。」


「その功績を隠し切れず、ついには主上自ら都へ呼び戻されたという御方ではないか……。」


次々と語られる父の話に、紗世は目をぱちぱちと瞬かせた。


(えー……父上って、そんな凄い人だったの? 私には、ただの親バカにしか見えないんだけど……。)


脳裏に浮かぶのは、自分へしつこく構ってくる父、源氏の君や頭中将に笑われながら絡みに行く父、そして事あるごとに惟成へ釘を刺していた父の姿ばかりである。


「な……なぜ、そのような姫君が、このような少年姿で讃岐まで……。」


「馬にも乗っていたぞ。」


「膝をついて竈で火まで起こしてたよな。」


「うどんも打ってたぞ。」


あちこちから驚きの声が飛ぶ。


紗世は頭を掻きながら、照れくさそうに笑った。


「だって、惟成が何年で都へ帰って来るか分からないって言うから。待てなくて、来ちゃった。」


その言葉を聞いた経房が、はっと目を見開く。


「源様! 先日、都の姫が『待ち続けている』と仰ったというあの文は……。」


惟成は淡々と言った。


「文ではない。本人が来た。」


「ぶふぉっ!」


今度は黒鷲が盛大に吹き出した。


「だっ……駄目だ! 無理だ! 面白過ぎる!」


先ほどまで黒鷲の過去に胸を締め付けられていた空気が、一気に崩れる。


黒鷲は涙を拭いながら笑った。


「まあ、いいじゃねぇか。これから明るい未来の話をしようってんだ。このくらいの空気の方が、ちょうどいい。」


その一言に、部屋の者達は思わず顔を見合わせ、あちらこちらで笑みがこぼれた。


「そうだな! じゃあ紗吉、この海賊達がこれからどう生きていくのか、教えてくれ!」


大伴が豪快に笑いながら言う。


「馬鹿者!」


経房が慌てて大伴の頭を押さえ付けた。


「紗吉ではない! 藤原検非違使尉殿の姫君だ! 無礼であろう!」


「あ、紗吉でいいです。」


紗世は小さく笑って首を振った。


「私は紗吉として、ここにいるんですから。紗吉は惟成様の使用人であって、都の姫君ではありません。」


そう言って部屋中をゆっくり見回す。


「それに……せっかく仲良くなれた皆さんとの間に、『都の姫君』なんて線を引かれる方が、私は寂しいです。」


その言葉に、張り詰めていた空気はさらに柔らかくほどけた。


惟成はその様子を静かに見渡し、小さく頷く。


「では、話を戻そう。」


紗世へ穏やかな視線を向ける。


「紗吉。お前が考えた、海賊達のこれからを皆に話してやれ。」


紗世は姿勢を正し、集まった者達をゆっくりと見回した。


「今まで海賊として生きてきた皆さんには、これからは職人として生きてもらいます。」


その一言に、部屋のあちこちから驚きの声が漏れる。


「職人……? 何の職人ですか。」


経房が首を傾げると、紗世はにっこりと笑った。


「うどん職人です。うどんという食べ物を作ってもらいます。」


「うどん?」


「聞いたことがないな。」


「一体どんな食べ物なのだ。」


ざわめきが広がる中、紗世は手を打って言った。


「せっかくですから、食べながらお話ししましょう。黒のおにーさん、製麺所からうどんと素麺を運んでもらえますか。本営の皆さんの分を用意しましょう。」


「おう、任せろ。」


黒鷲が立ち上がると、製麺所の男達も一斉に腰を上げ、本営を後にした。


          ◇


ほどなくして、大鍋や麺を入れた木箱、野菜を入れた笊を抱えた男達が次々と本営へ戻って来た。紗世もその列に加わり、そのまま台盤所へ入っていく。


「あ、あの……、さ、紗……吉。」


経房が声を掛ける。


「料理まで、あなたがなさらなくても……。」


姫君として扱うべきか、それとも今まで通り紗吉として接するべきか迷っているのが、そのぎこちない口調だけで伝わってきた。


惟成が静かに口を開く。


「経房殿、紗吉に任せましょう。製麺所の者達も、紗吉の指示の方が動きやすい。」


「……確かに。」


経房が頷くと、紗世は手際よく指示を飛ばし始めた。


「こっちは鍋を火に掛けてください。素麺はあとで茹でるので、先にうどんを。薬味は刻み終わったらこちらへ。つけ汁も器に分けてください。」


六十人近い男達が、それぞれ自分の役目を心得ているかのように動き始める。


薪をくべる者。


鍋の湯加減を見る者。


麺を茹でる者。


器を並べる者。


薬味を刻む者。


誰一人として無駄な動きをしない。


その様子を見た豪族達は、思わず息を呑んだ。


「……見事だ。」


「誰一人迷っておらぬ。」


「もう仕事として成り立っているではないか。」


感嘆の声が漏れる頃には、広間いっぱいに小麦の香りと湯気が立ち込めていた。


やがて大きな盆に載せられた器が次々と運び込まれ、全員の前へ配られていく。


紗世は皆の前に立ち、笑顔で説明を始めた。


「まずは、ざるうどんです。冷たい麺を、この器のつけ汁につけて食べてください。薬味はお好みでどうぞ。」


初めて見る食べ方に、貴族も武官も戸惑っていると、航太が一歩前へ出た。


「こうやって食べるんですよ。」


そう言って麺をつけ汁へくぐらせ、大きく啜って見せる。


「なるほど。」


「そういうことか。」


皆も見よう見まねで箸を伸ばした。


ずっ。


ずずっ。


ずずずずずっ――。


麺を啜る音が広間に重なる。


次の瞬間だった。


「これは……旨い!」


最初に声を上げたのは大伴だった。


「何だ、この喉越しは!」


「つけ汁も実に良い。」


「薬味を入れると、また風味が変わるぞ。」


「箸が止まらぬではないか。」


あちらこちらから感嘆の声が上がり、広間は一気に賑やかになった。


紗世はその様子を見て微笑み、続いて細い麺を指し示す。


「こちらは素麺です。うどんより細いので、焼いた魚をほぐしたものや刻んだ野菜と一緒に食べると、とてもよく絡むし、合います。」


男達は勧められるままに口へ運び、今度は細い麺ならではの食感に目を丸くした。


「これはまた違う旨さだ。」


「するすると入るな。」


「暑い時分には最高だ。」


さらに温かな湯気を立てる大ぶりの椀が運ばれてくる。


「こちらは、かけうどんです。温かいうどんなので、そのまま召し上がってください。」


皆が椀を手に取り、熱い汁を啜る。


「ほう……。」


「温かい方は、麺が柔らかい。」


「寒い季節には体が温まりそうだ。」


紗世は嬉しそうに頷いた。


「温かいうどんは消化も良いんです。風邪をひいた時や、お腹の具合が悪い時にも食べやすいですし、小さな子どもや、お年寄りにも向いています。」


笑い声が広間に満ちる。


初めて口にする料理を囲み、身分の違う者達が同じ鍋の話をし、同じ味に舌鼓を打っている。


その光景を眺めながら、紗世は目を細めた。


こんなふうに皆が笑って食卓を囲める日が、これから先も続けばいい。


そんな願いが、胸の奥で静かに膨らんでいった。


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