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第275話 海賊になった日

会議の間を、重い静寂が包んでいた。


惟成はゆっくりと黒鷲へ視線を向ける。


「黒鷲。……話すのが辛いこともあるだろう。だが、お前が讃岐守と結び、海賊となるまでの経緯を皆に話してくれ。」


黒鷲は膝の上で拳を握り締めた。しばらく俯いていたが、やがて大きく息を吐くと、静かに口を開いた。


「……十一年前だ。」


その一言だけで、部屋の空気がさらに重くなる。


「前年の税を、家族総出で何とか納めた。だが、家にはもう食い物も着る物もほとんど残っていなかった。儂はどうでもよかったが、妻と幼い息子が日に日に痩せていくのを見るのが、何より辛かった。」


ぽつり、ぽつりと、黒鷲は記憶を辿るように語り始めた。



十一年前。


雨は何日も降り続き、海は荒れ、漁に出ることもできなかった。


「くそっ……。」


伊助――後の黒鷲は、泥濘に足を取られながら港へ向かっていた。


「麦どころか粟すらねぇ。魚も獲れねぇ。これじゃ家族が飢え死にしちまう……。」


その時だった。


ぬかるみに嵌まり、身動きの取れなくなった牛車が目に入る。


「そこの者!」


御者が伊助を呼び止めた。


「身体が大きいな! 牛車が動かぬ。少し力を貸してくれ。」


伊助は黙って車体へ潜り込み、肩へ力を込めた。


「ぬうううっ……!」


ぎしり、と車体が持ち上がる。


その拍子に、牛車の中から小さな巾着が転がり落ちた。


御者も牛飼童も気付いていない。


(……金目の物か。)


一瞬ためらった。


だが、次の瞬間には身体が勝手に動いていた。


巾着を拾い、懐へ滑り込ませる。


牛車が泥濘を抜けると、御者は伊助を一瞥しただけで言った。


「もうよい。」


礼の一つもなく、牛車は去って行く。


「……ちっ。」


伊助は苦々しく吐き捨てた。


「助けた礼もなしかよ。」


誰もいなくなった道端で巾着を開く。


中には、庶民が一度で目にできるかどうかというほどの金が入っていた。


「こ……これだけあれば……。」


胸が高鳴る。


「米も買える……。麦も……。」


その金で、伊助は家族三人がひと月食べられるだけの米と麦を買い、擦り切れていた衣も新調した。


残った金は、熱を出した息子の薬代に充てた。


その日から伊助は、本当に追い詰められた時だけ、小さな盗みを働くようになった。


生きるためだった。


それ以上でも、それ以下でもなかった。


だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。


ある日、六つになる息子が再び熱を出した。


熱は下がったものの、日に日に痩せ衰えていく。


港で、「都から病に効く薬が商船で運ばれて来る」という話を耳にした伊助は、拳を握り締めた。


(買えるわけがねぇ……。)


家には金がない。


(盗むしか……。)


その考えを必死に振り払う。


しかし、息子の苦しそうな寝顔が脳裏に浮かんだ。


(……いや。あいつを助けられるなら、盗人にでも何にでもなってやる。)


そう決意して家を出た、その時だった。


家の前に牛車が止まった。


御者の顔を見た瞬間、伊助は息を呑む。


あの日の男だった。


「殿。この者です。」


御者は伊助を指差した。


「あの日、牛車を押した男です。」


牛車の中から穏やかな声が聞こえる。


「捕らえよ。」


あっという間だった。


気付けば首へ太刀を突き付けられ、伊助は縄を掛けられていた。



気が付けば、とある貴族の邸の庭へ突き伏せられていた。


砂利を踏む足音が近付いて来る。


「正直に話せば、家へ帰してやろう。」


柔らかな声だった。


伊助が顔を上げると、一人の貴族が静かに立っていた。


「あの日、巾着を拾っただろう?直前まで私が持っておったが、お前に会った直後に無くなったのだ。……金が惜しいわけではない。ただ、不誠実な者は好かぬ。」


伊助はしばらく黙っていた。


やがて肩を落とし、小さく頷く。


「……あの日、巾着を拾ったのは俺だ。」


「そうか。」


「金はもうねぇ。」


「何に使った。」


「米と麦を買った。家族三人分だ。着る物も買った。」


少し間を置き、俯いたまま続ける。


「……あとは、息子の薬だ。」


貴族は眉をわずかに動かした。


「子が病なのか。」


「今日も、その薬を探しに港へ行くところだった。」


伊助は唇を噛み締める。


「金なんか払えねぇ。でも、息子を助けたいんだ。」


しばらく沈黙が流れた。


やがて貴族は、穏やかな口調のまま言った。


「薬なら、私が用意してやろう。」


伊助は勢いよく顔を上げる。


「……本当か。」


「その代わり、一つ頼みがある。」


「薬をくれるなら、何でもやる。」


貴族は静かに微笑んだ。


「海賊になれ。」


伊助は言葉を失った。


「安心しろ。本当に命を懸けるようなことはさせぬ。狙う船も、船の護衛も、すべてこちらで用意する。護衛は追うふりをするだけだ。」


「……何のために。」


「荷を奪われれば、同じ荷がもう一度用意される。護衛の依頼も増える。」


男は伊助の目を真っ直ぐ見つめた。


「利益は何倍にもなる。」


さらに静かに言葉を重ねる。


「その利益の一割を、お前へ渡そう。」


伊助は拳を震わせた。


「一割とて、お前達からしたら見たこともないような大金だぞ?もう、飢えに苦しむことはない。税に怯えることもない。薬代に頭を抱えることもない。」


男は最後に、静かに言った。


「……子には、生きていてほしかろう。」


伊助は目を閉じた。


その場では答えを出せなかった。


「……少しだけ、考えさせてくれ。」



───────


黒鷲は一度目を閉じ、静かに息を吐いた。


「だが数日後、息子の容態が急変した。儂は慌ててあの男の邸へ行き、『海賊になる』と返事をして薬を受け取り、家へ戻った。」


そこまで語ると、黒鷲は俯いたまま言葉を切った。


「……だが、手遅れだった。」


会議の間が静まり返る。


「帰った時には、もう息子は息をしていなかった。」


誰も口を開かなかった。


黒鷲は震える拳を見つめながら続ける。


「儂の判断が遅かった。良いも悪いも関係なかった。息子の命が何より大事だったのに……。もっと早く決めていれば助かったのではないか、海賊にでも何でもなればよかった――そんなことばかり考えた。」


その声には、十一年という歳月でも消えなかった悔恨が滲んでいた。


惟成は静かに問いかける。


「その話を持ち掛けた貴族とは、誰だった。」


「当時、讃岐へ赴任してきたばかりの讃岐守だ。」


「赴任したばかりで、そのような仕組みを作っていたのか……。」


和気経房が苦々しく呟く。


「おそらく赴任する以前から、この仕組みを考えていたのでしょう。讃岐へ来たのも、そのためだったのかもしれません。そしてこれは私の推測ですが……」


惟成の目が鋭くなる。


「十二年前から税収を重くしたのは、海賊に仕立て上げる領民を炙り出す為だったのではないかと。」


その場の者達が一斉に惟成を見た。


「税が重くなり、どうしようも無くなれば、やむを得ず罪を犯す者が出てくる。そういう者達を集めて海賊をさせるつもりだったのでしょう。」


「つまり……税を重くしたのは、罪を犯させるため……海賊に身を落とす犯罪者を作り上げるためだったと……?なんて事だ……。」


経房は額を押さえ、愕然と言った。


「領民にとって税は生き死にに直結します。罪を犯すという選択肢は容易に想像がつきます。」


惟成は黒鷲を見た。黒鷲は力なく笑った。


「儂にはまだ妻がおる。あれは昔から身体が弱かった。だから二度と家族を失いたくなかった。海賊でも盗人でも構わん、とにかく生き延びねばと思った。」


その言葉に、大伴は堪え切れず袖で目を押さえた。


「くっ……。」


鼻をすすりながら顔を背ける。


隣では三宅も黙って唇を噛み締めていた。


その空気を受け止めながら、惟成は静かに口を開く。


「確かに、この者たちは十年もの間、海賊として瀬戸内海を荒らしてきた。しかし一つ、不自然な点があった。」


その場にいた者たちが惟成へ視線を向ける。


「海賊による被害記録には死者の名も記されている。だが、その死因を調べると様子が違う。」


経房が眉をひそめた。


「違う、とは。」


「溺死がほとんどです。」


部屋の空気が揺れた。


惟成は続ける。


「さらに、押収した太刀や弓矢も調べた。その結果、海賊たちが使っていた太刀は、ことごとく刃が潰されていました。」


「刃を……潰していた?」


三宅が思わず声を漏らす。


「ええ。あれでは強く斬り付けても衣が裂け、打撲を負わせる程度です。よほどの怪力でもなければ致命傷にはなりません。」


惟成は黒鷲へ視線を向けた。


「そうだな。」


黒鷲は黙ったまま頷いた。


代わりに源八が立ち上がる。


「旦那から支給される太刀や弓は、まず俺たち自身で刃を石に当てて潰していました。」


「自分たちで……?」


「はい。『何でこんなことするんですか』って聞いたら、旦那は言ったんです。」


源八は黒鷲を見た。


「『お前らを人殺しにはしたくねぇ。』って。」


その一言だけで、会議の間は再び静まり返った。


やがて大伴が堪え切れず涙を拭いながら口を開く。


「源様ぁ……。確かに海賊行為も略奪も罪です。ですが、この者らには情状酌量の余地があるんじゃねぇでしょうか……。」


三宅も深く息を吐いたが、なおも表情は厳しかった。


「しかし源様。この者たちは海賊として生きてきたのです。海賊を辞めた後、何で生計を立てるのです?」


その問いに、惟成は静かに頷いた。


「もっともな疑問だ。」


そう言うと、惟成は紗世へ視線を向ける。


「それについては――。」


部屋中の視線が紗世へ集まった。


「紗吉が説明する。」


「ぶぇ…?」


突然名を呼ばれ、紗世は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

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