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第273話 凪の前

「黒鷲。」


惟成が静かに名を呼ぶと、黒鷲は小さく息を吐き、ゆっくりと振り返った。


「……おう。」


「お前達も本営へ来い。先程の海辺での一件について、証人になってもらう。」


黒鷲は一瞬だけ黙り込んだ。その表情にはわずかな警戒が浮かぶ。


惟成はそんな黒鷲を見据えたまま、落ち着いた声で続けた。


「案ずるな。海賊の件については、お前達に不利なようには扱わん。むしろ、この場で本営の捜査に協力したという事実は、お前達にとって必ず良い方向へ働く。」


黒鷲はしばらく惟成の顔を見つめていたが、やがて諦めたように肩を竦めた。


「……わかった。おい、お前らも聞いたな。このまま若造について行くぞ。」


「へい。」


製麺所の男達は一斉に頷き、物部達を縛った縄を握り直した。


惟成と大伴は馬に乗り、黒鷲達は捕縛した物部一行を引き連れて歩き始める。


紗世は惟成の前へ静かに腰掛けていた。濡れた衣を少しでも隠そうと身を縮め、俯き加減のまま馬上に身を預けている。


その後ろでは、製麺所の男達が小声で囁き合っていた。


「おい……紗吉って、あれ……。」


「どう見ても女だろ。」


「最初からか?」


「さっき岩場で、追捕使が『紗世』って呼んでただろ。」


「だからか……。抱き上げた時も妙に軽いと思ったんだ。」


ひそひそと交わされる声は決して大きくはなかった。


しかし、惟成の耳にはしっかり届いていた。


馬上から静かに振り返る。


ただそれだけだった。


だが、その一瞥だけで男達は息を呑む。


(……こっわ。)


(追捕使、怒ってんなぁ……。)


誰ともなく口を閉ざし、それ以上その話題に触れる者はいなくなった。


惟成は再び前を向くと、小さな声で紗世へ語りかけた。


「紗世。」


「……はい。」


「『紗吉』は、もう終わりだ。」


紗世の肩がぴくりと震える。


「……はい。」


短く返事をしたものの、その声はどこか沈んでいた。


『紗吉』という少年の姿だったからこそ、自分は惟成の側近として行動できた。


女であることが明るみに出た以上、これまでと同じようにはいかない。


都へ帰されるかもしれない。


もう惟成の隣にはいられないかもしれない。


そんな思いが胸の奥を締め付ける。


俯いた紗世の様子を見て、惟成は静かに言葉を続けた。


「追捕使の任も、ほどなく解かれるだろう。」


「え……?」


紗世は思わず振り返った。


惟成は前を向いたまま答える。


「海賊は姿を消し、海賊船も押収する。讃岐で俺が果たすべき役目は、ほぼ終わった。」


その言葉を聞いた紗世の表情が少しだけ明るくなる。


「もちろん、讃岐守や中納言に関わる後始末は残る。それなりに時間は掛かるだろう。だが、それさえ終われば都へ戻れる。」


紗世は小さく笑みを浮かべた。


「……そっか。」


惟成も僅かに頷き返す。


そのまま一行は邸へ戻り、門前で馬を止めた。


「大伴。」


「はい。」


「すまんが、俺と紗吉は着替えてから本営へ向かう。先に戻っていてくれ。」


「承知しました。」


大伴は一礼すると馬首を返し、本営へ向かって駆けて行った。


惟成と紗世はそのまま仮住まいの邸へ入る。


庭へ足を踏み入れるなり、惟成は濡れた上衣を脱ぎ捨て、武具を外していく。


厚手の単衣だけを残した姿になると、桶を手に取った。


「井戸から水を汲んでくる。」


「うん。」


惟成が庭を離れると、紗世も濡れた上衣を脱ぎ、単衣姿になる。


(この邸には私と惟成しかいないし、大丈夫だよね。)


そう思い、庭先に干してあった洗濯物を取り込み始めた。


その時だった。


桶いっぱいに水を汲んだ惟成が戻って来る。


紗世の姿を目にした瞬間、その足がぴたりと止まった。


「……紗世。」


声がいつになく低い。


「そんな格好で庭を歩き回るな。」


「え?」


紗世はきょとんとした顔で振り返る。


惟成は桶をその場へ置くと、足早に歩み寄り、紗世の手首を掴んだ。


「ちょ、惟成?」


そのまま人目につかない建物の陰まで連れて行く。


「何するの?」


「何するのではない。」


惟成は大きく息を吐いた。


「全身ずぶ濡れなんだぞ。」


「でも単衣は着てるよ?」


「だからだ。」


惟成は困ったように額へ手を当てる。


「濡れた単衣は肌に張り付く。肌の色も身体の線も、全部透けて見えている。」


紗世は一瞬きょとんとしていたが、自分の胸元へ視線を落とした。


「…………え。」


次の瞬間。


「やあああああっ!」


慌てて両腕で身体を抱き締める。


「なんで惟成は透けてないの!」


「俺が着ているのは武具擦れを防ぐための厚手の単衣だ。お前のものとは生地が違う。」


紗世は耳まで真っ赤になり、その場にしゃがみ込んだ。


惟成は苦笑しながら肩を竦める。


「……本当によく今まで誰にも気付かれなかったものだ。」


紗世は膝を抱えたまま、小さく呟いた。


「やっぱり……みんなに言うんだよね。私が女だって。」


「言わぬわけにはいかん。」


惟成は静かに答えた。


「だが、それは俺から話す。」


その一言だけで十分だった。


紗世は安心したように頷く。


「……うん。」


「急いで着替えよう。」


二人は濡れた衣を脱ぎ替え、本営へ向かった。

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